堕胎
『太陽の季節』(石原慎太郎) 竜哉は、高校3年生の春に英子と出会った。竜哉も英子も、それ以前にすでに複数の異性との性体験があった。2人の関係は遊びのようでもあり、戦いのようでもあった。英子は妊娠し、「産んでみたい」と言う。竜哉は曖昧な返事をしつつ、妊娠4ヵ月を過ぎた時、堕胎を命ずる。英子は手術を受け、腹膜炎を併発して死ぬ。
『ヘッドライト』(ヴェルヌイユ) 初老のトラック運転手ジャンは、国道わきの食堂兼宿屋の女中クロチルドと知り合い、彼女は妊娠する。それを知らせる手紙はジャンに届かず、彼からの返事は来ない(*→〔手紙〕1a)。クロチルドは、妊娠3ヵ月で堕胎手術を受ける。やがて手紙を読んだジャンは、家族を捨ててクロチルドと暮らす決心をし、トラックで迎えに来る。クロチルドは手術直後の身体で助手席に乗る。長距離を揺られて行くうちにクロチルドの容態は悪くなり、救急車を呼ぶが、彼女はまもなく息を引き取った。
*自らの手で堕胎し、破傷風になって死ぬ→〔破傷風〕1の『土』(長塚節)。
『豊饒の海』(三島由紀夫)・第1巻『春の雪』 綾倉伯爵家の長女聡子は、松枝侯爵家の嫡子清顕よりも2歳年上で、2人は幼なじみだった。洞院宮治典王殿下と聡子との婚約が決まった時から、清顕は聡子を恋するようになった。2人は逢引を重ね、聡子は妊娠する〔*それを知った清顕の祖母は、「宮様の許婚を孕ませたとは天晴れだね。今時の腰抜け男にはできないことだ」と言う〕。綾倉伯爵と松枝侯爵は相談して、聡子を極秘に堕胎させ、その上で治典王に嫁がせようとする。しかし聡子は、奈良の月修寺で自ら髪を切り、出家する。
★3.間引き。堕胎手術ができなかった時代は、出産するまで待って子供を殺した。
『故郷七十年』(柳田国男)「布川(ふかわ)時代」 「私(柳田国男)」が茨城県布川にいた13~14歳の頃。利根川べりの地蔵堂で絵馬を見た。図柄は、産褥の女が、生まれたばかりの嬰児を押さえつけている悲惨なものだった。障子に映る女の影絵には、角が生えていた。その傍らに、地蔵様が立って泣いている。「私」は子供心に絵の意味を理解し、寒いような心になった。
『みちのくの人形たち』(深沢七郎) 産婆が方々の家から間引きを頼まれ、多くの子を消した(*→〔逆さまの世界〕7)。老年に達した産婆は、罪を重ねてきた両腕を、肩の付け根から切り落とした。産婆の死後、両腕のない仏像が造られ、祀られた。その産婆の何代目かの子孫の家に、「私」は泊めてもらった。帰途、駅の土産物売場に、両腕のない人形が立ち並んでいるのを「私」は見た。この人形は、間引きされた・消された子どもたちに違いなかった。
『蕨野行』(村田喜代子) 弥十郎夫婦は4人の娘を育てたが、その後に生まれた3人の女児は死なせた。産湯に入れて洗ったのち、濡らした紙を顔に当てたのだという。やがて待望の男児が生まれ、熊吉と名づけられたが、熊吉は生後すぐに風邪を患い、回復もせず死にもせず、虫の息で苦しみ続けた。「3人の死児の障(さわ)りだ」と考えた弥十郎は、山根のババに祈祷を頼んで、熊吉を安らかに死なせた。
『叩く子』(川端康成) 貧乏な土工・五郎の妻が2人目の子を身ごもった。乗合自動車で揺られていれば堕りるそうだが、金がない。五郎は、拾った回数券の表紙裏の運転系統図を見て、停留所名を読み上げる。そのたびに妻は窓敷居から畳の上へ、どしんと尻餅を着く。子供の頃の遊戯を思い出して、妻は笑いころげる。去年生まれた赤ん坊が、むずかって五郎を叩く。五郎は「子供なんか、いくらでも生まれろ」と思う。
『酉陽雑俎』巻14-555 「わたしは天人だ」と称する美男子が、1人の娘をさらって妻としたが、男の正体は野叉(夜叉)だった。野叉は空を飛び、火のような髪、藍の膚で、耳は驢馬に似ていた。何年かたち、野叉は涙をこぼして「縁が尽きた」と語り、鶏卵大の青石を1つ、娘に授ける。「家に帰ったら、これを粉にひいて服用しなさい。毒気を下ろすことができる」。娘が石の粉を飲むと、青泥のようなものが1斗あまり下りた。
人工妊娠中絶
(堕胎 から転送)
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人工妊娠中絶(じんこうにんしんちゅうぜつ、英語: induced abortion)は、母体で育つ胎児について、人工的な手段を用いて意図的に妊娠を中絶させることを指す。妊娠中絶の一つであり、日本の刑法では堕胎(だたい、criminal abortion[1])と言う[2]。俗語で「堕ろす(おろす)」とも呼ばれる。医療用語ではアウスと呼ぶ[3]。本項では、人工妊娠中絶を「中絶」と表記する。
- 1 人工妊娠中絶とは
- 2 人工妊娠中絶の概要
堕胎
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「キリスト教とユダヤ教」の記事における「堕胎」の解説
詳細は「en:Judaism and abortion」および「en:Christianity and abortion」を参照 唯一タナハで胎児に触れている箇所で、まだ生まれていない胎児を殺す堕胎と、すでに人として生まれた後の殺人とでは、罪の重さは同等ではないと明言されており、堕胎に対して与えられる罰も殺人に比べれば非常に軽いものとなっている。タルムードでは、頭か体のほとんどが女性の体内から出て初めて、胎児は正式に人として認められると述べている。したがって堕胎は殺人ではなく、抑制された状況の下で行われる妊娠中絶は、ユダヤ律法の下では合法であった。12世紀の偉大な聖書・タルムード学者シュローモー・イツハーキー、通称ラシは、胎児は「人ではない」とはっきりと述べている。タルムードに「胎児はその母の腿である」という表現もあり、胎児は妊婦の体の重要部分だと考えられている。ミシュナーのナシーム69bには「胎芽は40日を過ぎるまでは単なる水に過ぎないと考えられる」と書かれており、誕生前の胎児を人間とはみなさないのだと思われる。こういった考え方に賛同するキリスト教徒は、胎動以前の流産を関連付けるかもしれない。 胎児は女性の一部であって1つの個体とは考えないというユダヤ教の考え方に関連する節が、タルムードにはさらに2つある。1つの項では、妊娠した牛を購入した人は、買った牛だけではなく、その牛から生まれた子牛と、両方の所有者でもあると述べている.[要出典]。もう1つの項では、妊婦がユダヤ教に改宗した場合、母親の改宗は胎児にも適用されるというものである[要出典]。 仮に、女性の命を救うために妊娠中絶が必要だと医師が考えていれば、ユダヤ教はそれを支持するし、実際その権限を与えてもいる。権威あるラビの多くは、胎児に著しい遺伝的欠陥が認められる場合、中絶を許可する。望まぬ妊娠のため女性に自殺願望がある場合にも、中絶は許可される。しかし家族計画や利便性のために妊娠中絶することを、ユダヤ教は許していない。おのおののケースについては個々に決定されるべきで、その決断は、妊婦とその妊娠に責任がある男性、彼らのラビの責任において為されなければいけない。
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