黎明期 - 戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:07 UTC 版)
鉄道を趣味の対象とする行為の歴史は古く、鉄道の歴史とともに始まったといわれる。歌人の若山牧水のように、鉄道旅行を好みその体験を書き記した作家は少なくなかった。ただし明確な「鉄道趣味人」の登場までには少しばかり時間がかかったようだ。詩人・童話作家の宮沢賢治は鉄道に関心を持ち、自作の中に多くの鉄道を用いた描写があるが、現代的な意味での「マニア」とはいささか異なる。 明確に「鉄道を職業とは異なるレベルで探求する」という人物は1902年から1907年にかけて全国の鉄道写真を撮影して回った岩崎輝彌 (1887 - 1956) と渡邊四郎 (1880 - 1921) をもって嚆矢とするといわれる。この2人が写真家の小川一真に依頼して撮影した膨大な写真は、「岩崎・渡邊コレクション」として鉄道博物館に所蔵されている。 この両名のように広く名前が知られることはなかったものの、鉄道に関心を示し、個人的に探求を行った人物が他に存在する可能性も指摘されており、たとえば横浜で酒屋を経営していた田島貞次(1889 - 1957)は明治30年代以降に京浜間を走っていた蒸気機関車を詳細に観察して晩年にその証言を残したという。 鉄道創世期からにおける「鉄道マニア」は経済的に裕福な層が中心となっている。岩崎輝彌は三菱財閥創始者の岩崎家の一員であり、渡邊四郎は渡邊銀行創立者の一族である。また、大正時代にすでに機関車や一等車を趣味で乗り比べていた内田百閒は陸海軍の学校や大学で語学を教える教授だった。 当時の一般庶民の生活水準を考えると、鉄道趣味を含めた、今日的な趣味を行うだけの余裕はなかった。一般庶民のなかに鉄道趣味が浸透するのは、さらに時代が下ってから(一般的には1970年代以降)になる。 昭和初期には「鉄道」(1929年)「鉄道趣味」(1933年)「カメラと機関車」(1938年)といった鉄道趣味を専門とした雑誌や書籍も発行されるようになった。もっとも、これらは流通機構に乗って発売されていたわけではなく、発行部数も読者数もきわめて僅少であった。この頃から活躍していた鉄道趣味人としては西尾克三郎、高松吉太郎、亀井一男、本島三良、宮松金次郎、杵屋栄二らが挙げられる。彼らは鉄道写真の大家としても成し、膨大な写真コレクションの数々は今でも十分活用されている。 しかし、昭和10年代になり、国内が次第に軍国主義に傾いていくと、鉄道の軍事的側面が重視されるようになり、軍事機密保護上の理由で高所からの撮影が禁止となるなど、鉄道趣味に対する制約が厳しくなっていった。また戦時体制により用紙の統制が進んだこともあって、「鉄道」「鉄道趣味」は1937年-1938年に相次いで廃刊に追い込まれた。その後、関東・関西で趣味者の同人会が立ち上げられ、1940年に関東では「つばめ」、関西では「古典ロコ」という会員制の同人誌が発行されたが、これらも翌1941年に終刊となり、以後は太平洋戦争の終結まで鉄道趣味活動は事実上、不可能となったのである。 だが、一部の鉄道趣味者は、厳しい看視の目をかいくぐり、涙ぐましい努力と危険を冒しながら趣味活動を続行していた。公共機関の輸送力は軍事機密であったため、駅構内などで鉄道車両に直接カメラを向けたり、車両番号をノートに書き留めたりする行為は完全に禁止(不可能)となった。もし見つかれば、スパイ容疑による厳しい取調べが待ち受けていた。当局の許可を得てようやく撮影した写真も、検閲により容赦なく葬り去られるなど、鉄道趣味の暗黒時代であったが、周囲の目をごまかすため、数学の教科書の行間に車両番号を書き留めたというエピソードはよく知られている。 また、戦争による影響はこうした趣味活動の面のみにとどまらず、戦前に趣味者が蓄積・収集した写真などの記録や各種資料が空襲により焼失したり、終戦直後の外地からの引き揚げの際にやむなく放棄されたりして多数失われている。
※この「黎明期 - 戦前」の解説は、「鉄道ファン」の解説の一部です。
「黎明期 - 戦前」を含む「鉄道ファン」の記事については、「鉄道ファン」の概要を参照ください。
- 黎明期 - 戦前のページへのリンク