第十六軍司令官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 03:41 UTC 版)
1941年6月、第23軍司令官を拝命。11月、第16軍司令官を拝命。軍司令官赴任時に搭乗機の故障により吹雪の済州島に不時着している。12月、太平洋戦争勃発。開戦時はオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。 詳細は「蘭印作戦」を参照 1942年2月、攻略目標の重要油田地帯であるスマトラ島南部パレンバンの占領に成功。3月、ジャワ島上陸に成功。100隻弱の船団を使用する大規模な上陸作戦となり、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千人のオランダ軍と約5千人のイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍を無条件降伏させて作戦は成功した。 詳細は「バタビア沖海戦」を参照 ジャワ島攻略の際には、バタビア沖海戦が発生し、日本は掃海艇や輸送船に被害を出した。今村の座乗していた輸送船「龍城丸」も被雷沈没し、救い上げられるまで救命胴衣で約3時間、重油の流出した海で泳ぐことになった。これは魚雷の性能、射線などから指揮下の第七戦隊の誤射による被害であることは明らかだったが、一般には敵魚雷艇による被害と信じられていた。これは海軍側の謝罪に対し、今村が快く了承し、事実を公にしなかったためである。今村は上陸後の3月1日15時50分および54分に、海軍第5水雷戦隊・第7戦隊司令官に対しに対し、「二月二十八日夜貴戦隊海戦ノ赫々タル戦果ヲ慶祝シ併セテ当軍主力ノ戦闘ニ対スル献身的【一字不明】協力ヲ深謝ス 第16軍司令官今村均陸軍中将」という謝辞を送っている。しかし、この被害で今村の部隊は、第1次上陸部隊の揚陸後で死者は100名に抑えられたものの、遠距離用無線機や暗号表が海没し、ジャワ島中中部・東部に上陸した別働隊への直接指揮が5日もの間不能となるなど多大な損害を被った。 オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放して資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な軍政を行った。 戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。これは政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告し、ジャワの軍政を賞賛した。 また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌『インドネシア・ラヤ』が、ジャワ島で盛んに歌われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれた。 しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり、1942年(昭和17年)3月には今村とは親しい仲である参謀総長・杉山元が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足しており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判がとにかく多いから注意したまえ」と軽く叱責している。この時杉山から「バターン攻略に難航した本間雅晴軍司令官を大本営は更迭する予定である」と聞かされた際に、今村は杉山に対し「バターン攻略の難航は大本営の認識・指導不足に因るところが多く、兵力不足の状態でバターン占領を急かされてしまった不遇の本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる。」と大本営を鋭く批判し、本間を強くかばい杉山をある程度軟化させた。 陸軍中央の今村の軍政に対する批判は根強く、総理大臣兼陸軍大臣の東條英機が、状況調査のため軍務局長の武藤章少将と人事局長の富永恭次少将をジャワ島に派遣し今村と面談させている。武藤は今村に「シンガポール同様、強圧政策の必要」と説いたが、今村は日本軍の「占領地統治要綱」に定めてある「公正な威徳で民衆を悦服させ、軍需資源施設の破壊復旧する」という規定に則っていると反論し、激しい議論が交わされた。武藤との議論が平行線となった今村は富永に「昨年、大臣の名を以て全陸軍に布告された『戦陣訓』は、ご承知のように私が主宰して起案したものです。それに反するものに屈することは、私の良心の堪えられるところではありません」「ここに同席の富永人事局長は、大臣に上申の上、改正された『占領地統治要綱』を指令される前に、私の免職を計らっていただきます。結論は一つです。新要綱の発令を見るまでは、私のジャワ軍政方針は決して変えません」と富永に自分の更迭を要求した。今村は「戦陣訓」に定められた「服するは撃たず、従うは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言い難し」「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」という条項を絶対に遵守するという強い意志を示したものであった。その後、オランダ領東インド各地を視察した武藤は「今村軍の軍政方針は、中央の意図に反している。もっと強圧主義でやるべきだ」と意見を変えなかったが、富永は今村の強い意志に同意して更迭することはせず、1942年10月に「ジャワ軍政には、改変を加うる要なし。現在の方針にて進むを可とす」と打電して今村の方針を正式に承認している。強圧的な軍政をするように求めていた武藤は、そののち近衛師団長となってスマトラ島に着任したが、そこで今村の寛容な軍政による成果を目の当たりにして、今村の方針の正しさを認識しかつての非礼を詫びている。 今村の後任の原田熊吉中将は今村とは逆に、強圧的な統治を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になったとする意見もある。また、インドネシア軍政の初期に様々な住民宣撫や独立運動に対する理解などはスカルノや独立運動に関わったインドネシアの兵士などから評価されており、今村離任後の日本軍の様々な悪評とは好対照となっているとする意見もある。 今村によるジャワ軍政について、「現在でもインドネシアの歴史教科書にも掲載されて評価を受けている」とする主張が日本で行われたが、日本軍政に対する厳しい評価をするインドネシアの歴史教科書は、そのような記述は存在しない。
※この「第十六軍司令官」の解説は、「今村均」の解説の一部です。
「第十六軍司令官」を含む「今村均」の記事については、「今村均」の概要を参照ください。
- 第十六軍司令官のページへのリンク