洞爺丸事件とその後の対策とは? わかりやすく解説

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洞爺丸事件とその後の対策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:06 UTC 版)

第五青函丸」の記事における「洞爺丸事件とその後の対策」の解説

1954年昭和29年9月26日洞爺丸台風では、車載客船洞爺丸のほか、W型戦時標準船第十一青函丸戦後建造W型車両渡船北見丸日高丸(初代)、同H型車両渡船十勝丸(初代)沈没してしまった。 洞爺丸事件後の、5隻の連絡船沈没原因の研究によると、当夜函館湾の波の高さは6m、波周期は9秒、波長は約120m推定され当時青函連絡船水線長115.5mより僅かに長くこのような条件下では、たとえ船首風上向けていても、波により船首持ち上げられ縦揺れ状態のとき、下がった船尾は波の谷間向こう側の波の斜面深く突っ込んでしまい、その勢いで海水車両甲板船尾一段低くなったエプロン上にまくれ込んで車両甲板流入船尾上がると、その海水船首方向流れ込み次に船尾下がっても、この海水前回同様のメカニズム船尾から流入する海水衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅車両格納となっている車両渡船では、貨車満載状態で、停泊であれば波高6mのとき400トンから900トンとされ、この大量海水自由水として、車両甲板上を傾いた側の舷側まですばやく流れるため、波周期9秒で波高6mが転覆するか否か臨界点で、6.5mでは転覆してしまうとされた。また、波周期が9秒より短くて長くても、即ち波長120mより短くて長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減ることも判明した。さらに、石炭焚き蒸気船では、石炭積込口など車両甲板から機関室機械室ボイラー室)への開口部多数あり、これらの閉鎖が不完全で、滞留し海水機関室流入して機関停止し操船不能となって船首風に向け続けられなくなり転覆してしまうことも明らかになった。 なお、第十一青函丸については、船体三つ破断しており、事故2週間前に完成した二重底新設工事との関連など、他船とは異なった要因関与疑われたが、確証得られず、原因不明とされた。 事故後の1955年昭和30年)に急遽建造され車両渡船檜山丸(初代)では、車両甲板船尾開口部からの海水浸入対策として、車両甲板から機関室への開口部水密化したうえ、車両甲板船尾舷側外板下部多数放水口を設置し車両甲板上に流入した海水船外流出させる方式採用した。しかし、この方式は、旅客設備のない車両渡船では、その安全性模型実験などで確認されたが、船橋楼甲板客室を持つデッキハウス船では、安全性が十分確保できないこと判明したこのため沈没免れた車両渡船、デッキハウス船、車載客船全船で、車両甲板石炭積込口を含む機関室への開口部敷居61cm以上に嵩上げのうえ、鋼製防水防水扉を設置車両甲板から機関室への通風口閉鎖して電動通風とするなど、車両甲板から機関室への開口部水密性能の向上を図ったこれに伴い発電機車両渡船、デッキハウス船全船で250kVA2台に交換増強のうえ、容易に水没しないよう機械室中段設置した。また非常時救命艇迅速かつ容易に降下できる重力型ボートダビットへの交換行われた第十二青函丸では1957年昭和32年6月二重底とともに、デッキハウスを撤去し車両甲板船尾舷側外板下部多数放水口を設置し車両渡船とした。救命艇後部船橋楼甲板各舷1隻ずつの計2隻となった第六青函丸第七青函丸第八青函丸では、デッキハウスを残すため、1958年昭和33年)から1959年昭和34年)にかけ、船楼隔壁同等強度、即ち付近船体外殻同等強度有する船尾水密扉設置された。これは、1957年昭和32年建造車載客船十和田丸(初代)実用化した単線幅の船尾水密扉を、横方向に3倍近く拡幅し、船尾全幅3線分カバーできるようにしたものである。基本構造は、十和田丸(初代)船尾水密扉と同じであった。この扉は、船尾開口部上縁ヒンジ取り付けられ鋼製の上2枚折戸船尾扉で、中央部ヒンジで“く”の字に屈曲しシャクトリムシのようにこの屈曲部分後方突出しつつ、船尾下縁両端船尾開口部両縁のガイドレールに沿わせて上方開き全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上垂直に立てられロックされる構造であった動力電動ウインチで、下部下端両側のガイドローラーに固定され左右1対のワイヤーを、いったん船尾開口部上縁両端で、船尾ヒンジよりもやや高い位置船体固定した左右1対の滑車反転し上部下端両側の滑車再度反転したのち、船橋楼甲板より1層上の後部操縦室屋上より両翼新設し入渠甲板の下に設置した左右1対の滑車通して船橋楼甲板上の左右2台の電動ウインチ巻き込む仕組みであった。この入渠甲板出入港時、船尾開閉中や全開固定状態でも、船尾全体見渡せ監視場所として、船尾扉とセット設置された。また船内軌道船尾扉の敷居越え部分には、水密性確保のため電動油圧式の跳上げレール設置された。なお、扉の大型化により、扉閉鎖最終段階で、船尾扉を内側か引き寄せて船体に付けたゴムパッキンに船尾扉を密着させて水密性確保する油圧式締付け装置”が、十和田丸(初代)の4個から6個に増やされた。この船尾水密扉設置とともに車両格納水密化のため、車両格納所外舷上部通風採光用の開口は完全にふさがれた。 1958年昭和33年7月第六青函丸に、1958年昭和33年10月第七青函丸に、1959年昭和34年5月には第八青函丸それぞれ船尾扉が設置された。これにより車両格納容積総トン数加算され約5,800総トンとなり、車載客船なみに塗り分け線を下げ開口部なくなった外舷上部白く塗装された。洞爺丸事件から約4年経て、ようやくフルサイズ船尾水密扉完成したが、これにより、船内軌道船尾端ぎりぎりまでの車両積載ができなくなり車両積載数はワム換算46両から43両へ減少してしまった。この点は津軽丸連絡船建造まで課題となった車両甲板下は8水密隔壁区切られていたが、そのうちボイラー室機械室車軸室、操舵機室の各水密区画間3ヵ所には、車両甲板まで上がらなくても通行可能な手動水密辷戸が装備されていた。しかし、宇高航路1955年昭和30年5月発生した紫雲丸事件経験から、機械室前後の2ヵ所には、浸水等による交流電源喪失時でも操舵室からの遠隔操作開閉可能な蓄電池電源とする直流電動機直接駆動方式水密辷戸が装備された。後部デッキハウス頂部船橋楼甲板水密辷戸動力室設置され動力室内の直流電動機回転を、自在継手傘歯車接続されロッド延々と船底水密辷戸まで伝達し辷戸を開閉する構造で、十和田丸(初代)同等であったまた、石炭焚き蒸気船ボイラー室での過酷な労働環境改善のため、1959年昭和34年8月には第十二青函丸1960年昭和35年9月には第七青函丸ストーカー装備されその他の石炭焚き蒸気船においてもストーカー装備あるいは重油焚きへの改造が行われたが、第六青函丸第八青函丸の2隻は終航まで手焚き運航された。

※この「洞爺丸事件とその後の対策」の解説は、「第五青函丸」の解説の一部です。
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