死去と葬儀
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「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「死去と葬儀」の解説
オットー・フォン・ハプスブルクの死と葬儀(英語版)も参照。 2011年7月4日、ドイツ南部ペッキング(英語版)の自宅にて98歳で死去した。オットー逝去の報が伝わったハンガリーでは、ただちに議会での黙祷がおこなわれた。 オットー・フォン・ハプスブルクは、平和、民族の共存、ヨーロッパの秩序のために休むことなく働いた、偉大なヨーロッパ人でした。この悲劇的な損失以上の悲しみの時のなかで、私はあなたと皇室全体のことを自分自身に重ね合わせて故人のために祈ります。長くて満たされた生涯のなかで、大公オットーは、ヨーロッパの波乱に富んだ歴史の証人でした。 — ローマ教皇ベネディクト16世による「オーストリア大公カール殿下」宛の電報 葬儀は7月16日、故国オーストリア・ウィーンのシュテファン大聖堂において、ウィーン大司教クリストフ・シェーンボルンの司式により営まれた。いくつかのメディアにおいて、オットーは「最後の皇帝」「最後のハプスブルク一族」として記載されている。 葬儀には、欧州議会議長イェジ・ブゼクや、ハインツ・フィッシャー大統領やヴェルナー・ファイマン首相らオーストリア共和国首脳、そしてスウェーデン国王カール16世グスタフ、ルクセンブルク大公アンリ、リヒテンシュタイン侯ハンス・アダム2世やブルガリア元国王かつ元首相のシメオン・サクスコブルクゴツキ、ルーマニアの元国王ミハイ1世などの各国君主・元君主、イギリス、スペイン、ベルギー、ヨルダン、バチカンなどからも国王やローマ教皇の代理が出席し、帝国時代の伝統衣装を身にまとった市民ら約1万人が参列した。 帝国時代の国歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の唱和をもって葬儀は締めくくられた。ミサと棺の行進は、公共放送局であるオーストリア放送協会が中継放送をおこなった。ハプスブルク家の伝統に従い、オットーの遺体は同市のカプツィーナー納骨堂に安置され、心臓はハンガリー北西部のパンノンハルマの大修道院に翌17日に納められた。 オーストリア市民の間では、帝国時代の栄華を懐かしむ声が出る一方で、もはや民間人になったハプスブルク家の葬儀を共和国政府が支援したことに批判的な声も聞かれた。 歴史家のカール・フォルセカ(ドイツ語版)は、大勢のオーストリアとヨーロッパの政治指導者、そしてヨーロッパの王族が参列した葬儀を「不適切」な規模だと断じた。またジャーナリストのアンネリーゼ・ローレル(ドイツ語版)はオットーの葬儀について、経済的に困難な時代における「現実逃避のファンタジー」だと述べた。曰く、「もしオーストリア国民が本当にそのようなことすべてを望んでいるのであれば、ハプスブルク家の財産を返還しなければなりません」。
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死去と葬儀
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「ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)」の記事における「死去と葬儀」の解説
伝説的な初代教皇ペトロを除けば、31年7ヶ月教皇位にあったピウス9世に次いで、歴代2位の26年5ヶ月と2週間という長期間の在位であったが、晩年は暗殺未遂で受けた重傷の後遺症や、パーキンソン症候群など多くの肉体的な苦しみを受けた。 2005年2月からインフルエンザと喉頭炎による入退院を繰り返していたが、同年3月31日以降感染症によって容体悪化した。しかし教皇は入院を拒み、住み慣れたバチカン宮殿の居室で療養することを選んだ。ヨハネ・パウロ2世の容態悪化のニュースを聞いた信徒たちがサン・ピエトロ広場に集まって祈りを捧げていると、そのことを聞いた教皇は「私はあなたたちと一緒にいる。ありがとう」と語ったという。 同年4月2日午後9時37分(日本時間:3日午前4時37分)、ヨハネ・パウロ2世は敗血性ショックにより84歳の生涯を閉じた。最期の言葉は「アーメン」だったとされていたが、同年9月17日には最期の言葉が「父なる神の家に行かせてほしい」というポーランド語だったとも報道された。 同年4月8日に行われたヨハネ・パウロ2世の葬儀(英語版)は、参加人数において史上最大規模のものとなった。厳戒態勢の中で、キリスト教国であるか否かを問わず世界の要人が多数参加し、弔問外交の場ともなった。長年対立関係にあったアブドゥッラー2世ヨルダン国王と、カツァブイスラエル大統領が、葬儀の場で軽い挨拶を交わす光景も見られた。また中華民国(台湾)の陳水扁総統の弔問に対して、同国と対立関係にある中華人民共和国から抗議声明が出された(ただしバチカンは中華人民共和国と国交が無く、代わりに中華民国と国交を有する)。 なお葬儀にあたり、イスラム諸国を含めほとんどの国からは、国王・王太子や大統領など国家元首級の人物が参列したにもかかわらず、日本からは元外務大臣である川口順子内閣総理大臣補佐官(当時)と外務省の副局長が出席したのみであった。 詳細は「ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀に参列した要人の一覧(英語版)」を参照 コフィー・アナン 国連事務総長 アレクサンデル・クファシニェフスキ ポーランド大統領 レフ・ヴァウェンサ 元ポーランド大統領 カルロ・アツェリオ・チャンピ イタリア大統領 シルヴィオ・ベルルスコーニ イタリア首相 ジャック・シラク フランス大統領 ゲアハルト・シュレーダー ドイツ首相 ウェールズ公チャールズ イギリス王太子 トニー・ブレア イギリス首相 グロリア・アロヨ フィリピン大統領 陳水扁 中華民国総統 モハンマド・セイエド・ハータミー イラン大統領 アブドゥッラー2世 ヨルダン国王 ハーミド・カルザイ アフガニスタン大統領 バッシャール・アル=アサド シリア大統領 モシェ・カツァブ イスラエル大統領 ジョージ・W・ブッシュ アメリカ合衆国大統領 ローラ・ブッシュ アメリカ合衆国大統領夫人 ジョージ・H・W・ブッシュ 元アメリカ合衆国大統領 ウィリアム・J・クリントン 元アメリカ合衆国大統領 ネルソン・マンデラ 元南アフリカ大統領 ヨハネ・パウロ2世の他宗教との対話推進の姿勢に敬意を表し、キリスト教の他教派(聖公会、東方正教会など)や他宗教(ユダヤ教など)の聖職者も多数参列した。カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズも参列したが、これはヘンリー8世によるイングランド国教会創設以来初めてのことであった。 一般信徒も世界各国から約30万人参列したほか、サン・ピエトロ広場に入れなかった信徒や一般市民は約200万人にも及び、ローマ市当局は彼らのために大型のディスプレイを路上に設置して葬儀の様子を実況中継した。また参列者によって満室になる宿が続出し、ローマ市当局は野宿する参列者のためにテントを無料で貸し出すなどの緊急措置を取った。 ヨハネ・パウロ2世の死去を受けて、世界各地からローマを訪れた信者の数は約500万人に上り、うち約200万人はヨハネ・パウロ2世の故郷であるポーランドからの訪問者であったという。 葬儀後、ヨハネ・パウロ2世の遺体を納めた石棺は、サン・ピエトロ大聖堂の地下墓地の、ヨハネ23世の石棺の下の土中に埋葬された。ただし2000年の列福の際に取り出され、現在は大聖堂入口を入り右側に埋葬されている。一部の報道によればヨハネ・パウロ2世は生前に書いた遺書で、故郷での葬儀と埋葬を希望していたともいわれており、バチカンに埋葬した教皇庁の判断に異議を申し立てる声もあった。[要出典]
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