晴海
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:12 UTC 版)
「ヤングシャウト」で連載中の、自称「天才」の人気漫画家。実際に評価は高いが、気分屋で締め切り破りの常習犯。漫画に携わる人間は自分も含めて、作品のためなら生活や家族すらも犠牲にすべきという極端なプロ意識の持ち主で、カンパチとぶつかる。ただしそのエキセントリックな態度とは裏腹に、描いている漫画はギャグ漫画であり、文庫版第10巻表紙では「晴海太」という名前とともに、「対パンダ」なるギャグ漫画を連載していることが確認される。
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晴海(1期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:13 UTC 版)
1981年冬のC19は、当初川崎市民プラザで開催される予定だった。しかし、そこに主催者の内部分裂騒動が発生し、「反主流派(「クーデター派」「コミケ改革派」などと自称した)」は先手を打って会場を押さえてしまった。「反主流派」の行動の動機については、規模拡大に伴い規制強化が必要と認識したからとも、既に同人界に影響力を持ち始めていたコミケットの名声に目が眩み、乗っ取りを謀ったなどの諸説がある。また、声優を呼んだりアニメの上映会を開いたりできないかとする意見が当時からあったが、コミケットの趣旨にはそぐわないと却下された経緯もあったという(ただし後者は後年、企業ブースとしてコミックマーケットでも実現する)。こうして、コミケット準備会は望まぬまま、晴海にあった東京国際見本市会場(通称:晴海)の使用に踏み切った。なお、分裂した「反主流派」は「新・コミックマーケット」を名乗り、後に「コミックスクウェア」と改称した。しかしいつまで続いたのかは文献が確認出来ず不明である。また、2006年時点で現存する同人誌即売会「コミックスクエア」とは無関係である。「コミックスクウェア」終了後、「反主流派」の流れを汲む人物の一部は「コミックレヴォリューション」開催に加わったとも言われている。 以後、コミックマーケットの会場は6年間にわたって晴海で行われた。その間も参加サークル・参加者数共に増大を続け、1983年冬のC22において参加サークルは1,000を超え、さらに第1期晴海時代の最後の開催であるC30(1986年夏)には、3,900サークル、約35,000人が参加するに至る。また、この間に1983年以降、1988年の冬コミが中止になったことから、代替として1989年春に開催されたC35を除き、春コミは廃止された。 この間、1985年頃から『キャプテン翼』(『C翼』と略された)が女性サークルに絶大な人気を呼び、商業作品を題材に男性キャラクター同士の同性愛を表現した同人誌を制作・頒布する所謂「やおい」サークルが増加。若い女性参加者を大きく増やすこととなった。1983年より運営スタッフに加わった岩田次夫は、『キャプテン翼』ブームが少女漫画再生の鍵になると見てやおい漫画サークルを激賞。同作そのものは少年漫画であるにもかかわらず、女性がほとんどを占めたことが同人サークルの特異性である。ブームから外れた時期になるが、1992年のC43での公表データによると、『C翼』サークル代表者は男性6、女性1083で女性比率は99%を超えている。少年漫画(特に「週刊少年ジャンプ」作品)サークルが女性中心の傾向は現在でも変わっておらず、むしろ出版社側も利用する動きがある。 また、岩田はサークル情報などの事務管理のコンピュータ化を企画・実行し、急激な作業量の膨張に対応した。これには、参加可能なサークル数を増やすことで人材発掘・育成を進めようという意図もあったという。岩田はスタッフの第一線を退いた後も「イワえもん」の愛称で親しまれ、同人誌評論などの活動で同人界に影響力を持ち続けた。岩田は2004年に死去したが、現在でもカタログや参加申込書にはイワえもんが欠かさず登場する。
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晴海(2期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:13 UTC 版)
東京流通センターでの2日開催でも人員・サークルを収容しきれなくなったため、翌1988年夏のC34より、会場を晴海に戻すことになった。この時期に至って事務管理のコンピュータ化が確立し、倍以上の9,200サークルの参加を実現させた。とはいえ、この間も会場の確保に困難を極める状況に変わりはなく、1988年冬に開催予定としていたC35開催に至ってはついに会場を確保できず、翌1989年3月まで開催延期を余儀なくされる。これが、通常開催としては最後の春コミであった。また、1989年夏のC36では、サークル数1万、参加者数は10万人の大台に乗った。
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晴海(3期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:13 UTC 版)
以上のような経緯を経て、コミックマーケットは1991年夏のC40から1995年冬のC49まで、三たび晴海に舞い戻ることになる。そのため、しかし、猥褻図画に対する自主規制の強化は避けられず、この時期に見本誌チェックによる規制を導入している。 この時期には1980年代後半の『聖闘士星矢』とその商業的成功の影響を受けて製作された『鎧伝サムライトルーパー』などの所謂美少年アニメが若い女性のアニメファンの間でブームとなり、ファンダムにおける盛り上がりはテレビアニメ自体の放映終了後もなお数年間にわたり持続した。これは同人界・コミケットにも大きな波及を見せ、この時期に大量の同人誌が制作されコミケ内でそれぞれ単体ジャンルとして成立するほどの隆盛を見せた。しかしながら、その多くが「やおい」と呼ばれる男性同性愛の性描写を多かれ少なかれ含むもので、元が子供向けアニメである作品の二次創作物としては内容面で非常に問題があると言わざるを得ないものであった上、これらを収録した同人アンソロジーコミックが多数制作されたこと、さらにはこれら同人アンソロジーコミックが著作権などの面で違法性の高い同人誌やコミケットの状況を利用して商業出版の流通に乗せられたことなどは、それ以降のアニメ制作プロダクションやメディアミックス関連企業の二次創作全般に対する姿勢を改めさせる要因の1つとなり、最終的には著作権者である企業の著作権管理の強化にも繋がっていった。この著作権管理の厳格化は、以降のコミックマーケットの同人誌も含めた二次創作全般に大きな影響を与え、そこでは様々な制約の増加や自主規制のさらなる強化という形で影を落とすことになった。とはいえ、これら「やおい」同人誌の隆盛は、以降のアニメ作品でも繰り返され、1990年代半ばになるとさらに発展し、商業出版・同人の枠を超えてボーイズラブジャンルが隆盛する礎となっていく。 参加者の膨張はとどまることを知らず、1992年夏のC42では、入場待ちの長蛇の列に折からの猛暑が加わり、数百人が熱中症で救護室に運ばれる騒ぎになった(所謂「ジェノサイドコミケ」)。また、1995年夏のC48は、開催20周年記念として初の3日間開催を行うなど、イベント自体の規模もまた膨張を続けていく。 この時期のコミックマーケットにおいて特筆すべきは、1992年の『美少女戦士セーラームーン』の登場である。男女両性の読者へ幅広くアピールした同作品の台頭をきっかけに、女性作家による男性向け創作が大幅に増えることとなり、この傾向は以後の『新世紀エヴァンゲリオン』のブームへと続いてゆく。また、1990年代半ばから2000年頃に掛けて、商業出版の男性向け成人向け漫画に数多くの女性作家が登場するその端緒ともなった。 その後、晴海の閉鎖が決定し、1995年冬のC49をもって晴海での定期開催を終了。翌1996年春の「さよなら晴海!! コミケットスペシャル」をもって晴海での開催は終了となった。
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