放映終了後
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『無敵超人ザンボット3』に端を発した、名古屋テレビ発の土曜夕方のテレビアニメは、路線の違いこそあれど10年余りにわたってサンライズ制作・創通エージェンシープロデュースによるロボット作品の連作が続いていたが、本作品の終了と共にこの流れにも一区切りが付けられ、後番組にはジャンル・制作会社なども含めそれまでとは趣を異とする『宇宙伝説ユリシーズ31』(1981年制作)が配された。また同番組終了後の『鎧伝サムライトルーパー』(1988年)からは再び本時間帯におけるアニメ制作をサンライズが手掛けるものの、メインスポンサーや広告代理店がそれまでのバンダイ・創通エージェンシーから、タカラ・東急エージェンシーへと変更されるなど制作体制にも変化が生じた他、『勇者エクスカイザー』(1990年)が放送されるまでの間はロボットアニメ以外の路線が志向された。 番組終了後もビデオテープによる全話映像ソフト化はされず、1999年から2000年にかけてLDで発売されているが、DVDの爆発的普及期と発売が重なったため販売は奮わず、ほどなくして廃盤となっている。一方で1998年に発売されたリアルロボット系アクションゲーム『リアルロボッツファイナルアタック』、2001年に発売されたシミュレーションRPG『スーパーロボット大戦A』に登場したことをきっかけに、以降の『スーパーロボット大戦シリーズ』や、『A.C.E.』にも登場。これらゲーム作品への登場によって人気が再燃し、2005年冬にはDVD-BOXが発売されるに至った。2022年に、放送35周年としてブルーレイボックスの発売が発表されている。
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放映終了後
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「ドラえもん (1973年のテレビアニメ)」の記事における「放映終了後」の解説
残された日本テレビ動画のスタッフらは、グロス請け先の支払い金を充てるために会社の備品など売れるものは全て売り払い、社屋引き払いのため本作に関する資料のほとんどを止むを得ず廃棄処分したという。しかし、実際には、川本征平のように全く支払われなかった外注スタッフもおり、川本は日本テレビのプロデューサーから「制作費は既に日本テレビ動画に支払っているから、これ以上は払えない」と言われたという。また、川本によると、自らが社長を務めたアトリエロークと、同じく背景美術を手掛けたスタジオじゃっくには発注元である日本テレビ動画から支払われる最終2話分のギャラが未だに支払われていない。この件に関して「私の後任のプロデューサーは局と外注スタッフとの板ばさみになって非常に苦労された」という企画当初のプロデューサーである川口晴年の証言も存在する。 真佐美は最終回が放映された9月30日の夜、日本テレビ動画の解散に伴う社屋引き払いのためセル画や絵コンテなどの制作資料を、浦和市(現・さいたま市)内の荒川河川敷で止むを得ず焼却処分したと証言している(本編フィルムは焼却していない)。このような理由から、結果的に本作の資料は当時のスタッフが個人的に所有している一部のものを除いて、ほぼ現存しないとみられている。 様々な想いを馳せたライトバン一杯に詰まったセル画、せりふ台本、絵コンテ、カット表、シナリオ原本、色見本、色指定キャラクター集、現金出納帳が目の前で燃えていったことを、真佐美は「わが子を荼毘に付す気持ちでした」と、当時の心境を回想している。放送終了後も藤子・F・不二雄は後述する作品内容への評価とは別に、個々のスタッフの姿勢に対しては好意的であり、真佐美が放送終了後に藤子本人に会いに行った際には「是非またやろうよ」と言って握手してもらったと述べている。 日本テレビ動画解散後、元スタッフらは田無市西原のアパートに日本テレビ動画の労働組合を作り、失業保険を受け取りながら管財人との交渉の拠点としていた。その後、元スタッフらは就職先が決まったり、仕事を廃業して田舎に帰ったりしていたので、日本テレビ動画の労働組合は1975年3月に活動を終結した。 本作のフィルムは放送終了後も日本テレビで7年間管理され、その間は地方局へ貸し出されることもあった。再放送は、日本テレビ平日朝の再放送枠『おーい!まんがだヨー』(関東ローカル)で1974年・1975年に行われたのをはじめ、テレビ朝日系でアニメ第2作が開始される1979年までの5年余りの間に、複数の局で比較的多く行われていた。 フィルムは日本テレビでの管理期間終了後、散逸して行方不明になっていたと思われていたが、安藤健二の調査により、本作の現像を担当した東洋現像所(現:IMAGICA)が1995年に横浜工場を閉鎖する際の在庫整理で、最終話を含む後半16話分のネガフィルムを発見し、同社が委託している東京湾岸の倉庫に保管されていることが判明した(現存状況については後述)。 編成上、日曜夜7時枠は日本テレビ制作枠から読売テレビ制作枠に切り替えられ、元々月曜夜7時半に放送されていた「全日本歌謡選手権」が移動、空いた月曜夜7時半枠は一旦日本テレビ制作枠に変更し、木曜夜7時半に放送していた『ほんものは誰だ?!』が移動した。木曜夜7時半枠は夜8時に放送していた「木曜スペシャル」を枠拡大するように変更された。 なお日曜夜7時枠でアニメが放送されたのは、1968年4月7日から1969年9月まで放送された『ディズニーランド』以来だが、『ディズニーランド』は「海外作品」「1時間番組」「実写と併用」であったため、「国産」「30分作品」「オールアニメ」は『ドラえもん』が開局以来初めてであった。その後、同枠では1989年に『シティーハンター3』、1991年に『シティーハンター'91』がそれぞれ放送されるが、いずれもよみうりテレビ制作作品であるため、日本テレビ制作作品は『ドラえもん』が唯一となった。 本作の放送終了後、日本テレビ制作の単発アニメ『T・Pぼん』が1989年に放送されるまでの間、日本テレビ系列で新作の藤子アニメが放送されることはなかった。
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