ドラえもん (1973年のテレビアニメ)
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『ドラえもん』は、藤子不二雄の藤本弘による日本の漫画。本項では漫画『ドラえもん』を原作としたアニメシリーズのうち、1973年に日本テレビ系列にて放送されたアニメシリーズについて述べる。
注釈
- ^ 「演出助手」の範囲を超えて作業していたので「担当演出」という名称が使用された[1]。また腰繁男はアニメ第2作2期の演出も担当している。
- ^ 真佐美ジュン(本名・下崎闊)は企画の経緯について「東京テレビ動画(日本テレビ動画の前身)はずっと任侠路線ばかりやっていたので、次回は少年もので『清水次郎長三国志』をやりたいと、日本テレビ動画社長の新倉がそういう企画を考えて、実際に動いていたのですよ。ところが、その動きの中で『ドラえもん』の存在を知ったのです。これは面白いぞということになりまして、早速『ドラえもん』の企画を立てたら、その企画が先に売れちゃったんです。『新オバQ』のヒットがあったことも大きな要因でしょうが、あの頃『ドラえもん』に目を付けたということは、彼には先見の明があったと言えますね」と証言している[2]。
- ^ ただし、真佐美はチーフディレクターの正延宏三との仕事上のトラブルから放映当初に『モンシェリCoCo』の制作主任を自主降板している[3]。
- ^ 当時、日本テレビ動画は東京都中野区と元来の本拠だった新潟市にスタジオを構えていた。「東京に本社を移した」とされるが、安藤健二の調査では登記上は最後まで本社は新潟であった[5]。
- ^ 放送された1973年当時はカラーテレビと白黒テレビの普及率がちょうど半々程度の時期であった。
- ^ 第1話の原作は『小学一年生』1970年11月号掲載の「クルパーでんぱのまき」(藤子・F・不二雄大全集3巻に「おかしなでんぱ」として収録)に改定を加えたもの。
- ^ 放映当時、キー局の関東地区など民放4局地域では裏番組として『マジンガーZ』(フジテレビ)や『アップダウンクイズ』(毎日放送制作・NETテレビ)などが放映されていた。一方、広島県や福岡県を除く九州各県など日本テレビ系とフジテレビ系をクロスネットとしていた地域では、『マジンガーZ』を遅れネット(または競合他局への放映譲渡)とした上で、本作を同時ネットしていた。なお本作でドラえもんを演じた富田耕生は、『マジンガーZ』でもレギュラーキャラクターであるドクターヘルとヌケ(ボスの子分)の二役を演じていた。
- ^ a b MSN産経ニュース(2009年1月12日)の記事には「3クール目への続行も決まりかけた」とある[11]。
- ^ かつて富田が降板したのは交通事故を起こしたからだという噂があったが、これは事実ではない。この噂は日本テレビ動画の前作『モンシェリCoCo』製作の打ち合わせのため、制作主任の真佐美が日本テレビ動画の新潟スタジオに行く途中に交通事故を起こしたことに起因する。後に下崎は『モンシェリCoCo』放送時にスタッフとのトラブルで番組を自主降板し、そこから「『モンシェリCoCo』のプロデューサーが交通事故を起こしたため辞めた」と言う噂がたち、その噂が一人歩きして、いつのまにか「交通事故で富田耕生が降りた」という噂になっていたという[3]。
- ^ その後、新倉はフィリピンに移住し、1986年5月に拳銃密輸で逮捕、送検されている。送検・起訴後の報道はなく、以後の消息などは不明[14]。
- ^ 安藤健二の調査では、登記上の日本テレビ動画の代表取締役は稲庭で[5]、吉川惣司は安藤の取材に対して稲庭を「会長だけどお金を出すだけ」と述べている[16]。真佐美も安藤の取材に対して「稲庭会長」と呼んでいる[17]。
- ^ 「制作進行」の仕事だけでなく作品を幅広く担当したので「担当制作」という名称が使用された[1]。
- ^ 真佐美が昔見た映画で「無事に帰って来て」という願いが黄色いリボンで描写されていたことに由来する[15]。
- ^ 藤子プロ監修の『Fライフ』(小学館)4号に記載された年表では、1973年の藤子アニメは『ジャングル黒べえ』のみとなっているほか、川崎市の藤子・F・不二雄ミュージアムの年表にも本作に関する記述は不掲載となっている。一方で、ドラえもん50周年特設サイト内の年表には、1973年に本作が放送開始された旨の記述があり[25]、その他に2000年刊行の『ドラえ本 ドラえもんグッズ大図鑑3』p.142には「初のアニメ化」として本作が紹介されている。
- ^ 当時は制作プロダクション(藤子スタジオ)が同一だったため、トキワ荘時代からの仲間だった永田竹丸や、両者から信頼の厚かったしのだひでお、方倉陽二など、藤子の2人と関係の深い漫画家がスタッフおよび社外協力者にいた。また、藤本が執筆した短編『ドラえもん誕生』では、安孫子とも本作についての打ち合わせをする描写もあった。なお、安孫子は放送終了後、富田耕生に「あの時期に『ドラえもん』は早すぎた」と話している[31]。
- ^ ラッシュ編集は日本テレビ動画で、ネガ編集は西新宿のスタジオ・ゼロで行われた[3]。
- ^ そのため、最終回後に発行された『小学四年生』1973年11月号掲載の『ドラえもん』の扉絵には「テレビ大人気放送ちゅう」とのあおり文句がある(安藤、1982年、p.63に該当ページの写真が掲載されている)。
- ^ 富山県では当時、アニメ第2作1期が放送されていなかった。1980年4月5日からようやく北日本放送でネット開始された。
- ^ のび太がドラえもんに洗面器を渡している構図のセル画で、真佐美は日本テレビ動画で使用されたセル画ではないと否定した。
- ^ 文化庁のメディア芸術データベースや徳間書店の『TVアニメ25年史』(1988年)には本作のスタッフ情報に正延宏三、辻真先、永樹凡人などの表記も確認出来るが、後に関わっていなかったことが判明している。なお放映前に作成されたとみられるスタッフ表には大貫信夫の名前が記載されていたことが判明しているが、実際の製作に関わっていたかどうかは不明である[3]。
- ^ 前述の通り、実際にはカラー作品である。
- ^ 2018年2月12日、ニコニコ動画にて第12回Bパート「男は力で勝負するの巻」の一部音声がアップロードされたことにより、富田版ドラえもんの声が久々にお目見えすることになった。
- ^ ただし、日本コロムビアから発売された主題歌のレコード(SCS-515)のジャケットにはドラミも描かれている。
- ^ 声優としてのデビュー作。
- ^ 全体のスケジュール作成管理、スタッフの手配、外注先の選択、単価交渉などを統括した現場責任者。演出助手では「真佐美ジュン」の名前を使用した。パイロットフィルムの制作時は現場の制作と演出を一人で行っていたが、演出責任者として上梨満雄をチーフディレクターに迎え、演出助手に岡迫和之と腰繁男を迎えたことで、演出の「真佐美ジュン」は要らなくなり、制作として専念した[6]。
- ^ 『小学一年生』(小学館)1973年4月号掲載の本作品の漫画「くものねんどのまき」では欄外のネット局一覧には、名古屋放送(現:名古屋テレビ放送=メ〜テレ)が掲載されていたが、放送開始直前の中京圏ネットワーク整理により、中京テレビでの放送となった。なお、名古屋放送では4月1日時点では『仮面ライダーV3』(毎日放送制作)を1日遅れネットで放送していたが、その後『アップダウンクイズ』(毎日放送制作)の同時ネットに移行した。
- ^ 後に再アニメ化の構想が出た際、当初は読売テレビで企画書が作成されたが上層部の理解を得られず、その企画書を旭通信社に譲渡することで他局へのセールスが行われ、最終的にテレビ朝日系列での再アニメ化が決定した。
- ^ 当時は岡山県との相互乗り入れの実施前であった。
- ^ 当時、日本テレビ系列でもあった新潟総合テレビ(日本テレビ動画の代表取締役だった稲庭は同社役員)は本来の時間帯に日曜19:30枠の『マドモアゼル通り』などを30分先行ネットしていた。また、新潟に日本テレビ動画の制作スタジオがあった。
- ^ 『幼稚園』1972年8月号の告知記事は、ピー・プロダクションの実写企画(後記)と日本テレビ動画のアニメ企画のどちらを意図したものかは判断材料が乏しく明確になっていない。
- ^ 野沢雅子の初登場回では「ドラえもん、声変わったね?」「ちょっと風邪ひいちゃって」というメタフィクション的な会話があったと漫画家の滝季山影一が証言している[62]。
- ^ 結果的には、北日本放送・国際放映制作のテレビドラマ『ゲンコツの海』が『新オバケのQ太郎』の後番組となった。なお、『ドラえもん』(1979年)以前の藤子・F・不二雄原作のテレビアニメ作品は本作を除いて東京ムービー・Aプロダクションが全作品を制作している)。
出典
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 下記外部リンクにある真佐美ジュンのインタビューでそのように証言されている。
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- ^ a b c d e f 日本テレビ動画最後の日
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- ^ a b 安藤、2008年、pp.64 - 65。真佐美ジュンの証言内容はプロデューサーだった佐々木一雄からの伝聞という。
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- ^ 藤本は「さようならドラえもん」(雑誌『小学三年生』1974年3月号に掲載)を執筆したものの、結局は翌月号(雑誌『小学四年生』1974年4月号)で「帰ってきたドラえもん」を執筆してドラえもんの連載は続くことになった。
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