日本テレビ動画
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日本テレビ動画(にっぽんテレビどうが、1971年11月設立 - 1973年9月30日解散)は、かつて存在していたアニメ制作プロダクション。本項ではその前身にあたる日放映動画スタジオ(1966年[2] - 1968年)および、東京テレビ動画(1968年 - 1971年)についても記す。
- ^ ビル名は後に「小沢ビル」→「野方ビル」と名称変更している。
- ^ ただし、母体となった日本放送映画社の中にアニメ制作部門が発足したのは後述の通り1965年である。
- ^ a b c d 安藤、2008年、p.66 - 67
- ^ a b 安藤、2008年、pp.68 - 69
- ^ 安藤、2008年、pp.85 - 86
- ^ 安藤、2008年、p.87
- ^ a b c d 安藤、2008年、pp.70 - 73
- ^ アンド・ナウの会『僕らを育てたシナリオとミステリーのすごい人4 辻真先インタビュー』2017年8月
- ^ “日本テレビの故・藤井賢祐プロデューサーをめぐる1970年代前半のテレビ裏事情について”. Togetter (2019年11月10日). 2019年11月11日閲覧。
- ^ a b 安藤、2008年、p.56
- ^ 当時新潟総合テレビはフジテレビをメインにNETテレビ(現・テレビ朝日)・日本テレビと系列関係にあった。ただし、日本テレビ動画に改組後の作品は系列および番組編成の関係上、新潟放送(BSN・TBS系列)放送されていた。
- ^ 安藤、2008年、p80
- ^ a b c 安藤、2008年、p.75 - 76。吉川は稲庭を「会長」、新倉を「社長兼プロデューサー」と呼んでいる。
- ^ 安藤、2008年、pp.64 - 65
- ^ 安藤、2008年、p.61
- ^ a b 旧ドラえもん製作者証言(個人サイトの真佐美ジュンインタビュー)
- ^ ここに言及のある「会長」は、『封印作品の憂鬱』における真佐美ジュンや吉川惣司へのインタビュー(同書p.65、75)から、代表取締役の稲庭左武郎を指すとみられる。
- ^ 安藤、pp.78 - 79
- ^ a b ドラえもん - 真佐美ジュンブログ
- ^ 「日本テレビ版ドラえもん」でお馴染みの日本テレビ動画が入っていた雑居ビルに行ってきたよ日記 - 原子おはじき
- ^ 半年は本放送で残り半年はリピート(再放送)。
- ^ 記憶のかさブタ「幻のパイロットフィルム特集」
- ^ 赤塚不二夫保存会/フジオNo.1「日の目を見なかった?幻の日本テレビ動画版『天才バカボン』パイロット・フィルム」
- ^ 例として、後述する『男一匹ガキ大将』の場合、AT-Xでの再放送時の同局公式ページや、ベストフィールドのDVD-BOXの公式ページに記載されていた著作権表示は、原作者である本宮ひろ志・原作漫画の出版元である集英社・製作局の日本テレビとなっている(男一匹ガキ大将. AT-X.・第94集 男一匹ガキ大将 コレクターズDVD<デジタルリマスター版>. ベストフィールド. 共に2022年6月16日閲覧)。
- ^ 前身のAプロダクションが、1973年版の第21回Bパート「お天気ボックスの巻」の下請けを行った。
- ^ 安藤、2008年、pp.44 - 46。
- ^ 安藤、2008年、pp.21、29 - 31
- 1 日本テレビ動画とは
- 2 日本テレビ動画の概要
- 3 スタッフ経験者(既出以外)
- 4 参考文献
日本テレビ動画
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モンシェリCoCo(1972年、制作主任)※放送中にスタジオTAKEの正延宏三とのトラブルで自主降板。 ドラえもん パイロットフィルム(1973年、演出) ドラえもん(1973年、制作主任)
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