日本への伝播
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日本への伝搬は3つの経路があるが、最も古い経路は南西経路と呼ばれるヨーロッパ人から伝えられた経路である。いくつかの説があるが、ド・カンドルは1573年から1591年ごろ(天正年間)にポルトガル人によって熱帯型の硬粒種(フリント種)が長崎にもたらされたとしている。黍に似ているということで、当時は「とうもろこし」という名の他に「なんばんきび」とも呼ばれ、漢字では南蛮黍、あるいは玉蜀黍(玉は美しい、蜀は外国の意)と書かれた。 その後、阿蘇山麓や四国の山中、富士山麓など気候や水利の面で稲作に向かない地域に広がり、18世紀末には蝦夷地のモロラン(現在の北海道室蘭市)に至っている。ただし当時は硬い硬粒種しか無かったので、あくまで雑穀扱いであり、粥や餅に混ぜてかさ増しに使われることが多かった。江戸時代の料理書『本朝食鑑』には「火にあぶって食べるか、乾燥して粉に挽き、餅にするのもよい」と書かれ、加工品として食されていた。 栽培が本格化したのは明治時代である。明治初年に、近代の育種法によって作られたアメリカの早生のデント種、フリント種が北海道に導入され、開拓使によって大規模な畑作が始まった。トウモロコシは生食、飼料として定着し、やがて東北地方や関東に広がった。この伝播経路を北海道経路と呼び、南西経路とともに日本への主な伝播経路となった。 第二次世界大戦後、アメリカからスイート種の新品種が導入され、青果用の未熟トウモロコシの栽培が急増した。育苗会社や農業試験場が世界中の苗を取り寄せて作り出した交雑品種が広く導入される事例が増え、こういった導入経路は自在経路と呼ばれている。1950年に開発された「ゴールデン・クロス・バンタム」が最初の例となった。
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日本への伝播
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製紙技術は中国から7世紀までに伝えられた。この技術が改良され、「和紙」となった。 布・楮・三椏・麻・梶・桑・雁皮など、材料は色々工夫され、用途に合わせて様々な品質の紙が製造された。しかし日本においても紙は高価であり、ゆえに日本各地の特産物として生産された。一方、紙の再利用も行われており、使用後に裏紙部分に再度筆記(紙背文書)したり、漉き直しつまりリサイクルして使用された。漉直しの紙は「漉返紙(宿紙、紙屋紙)」と呼ばれた。朝廷では図書寮紙屋院でこの作業が行われており、このリサイクル紙は朝廷の正規の文書でも略式命令(綸旨など)などの場合には使用された。 欧州から「洋紙」が入ってくるのは安土桃山時代以降、洋紙の本格的な製造は明治時代以降となる。
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日本への伝播
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竽は奈良時代に日本に伝来したが、平安時代にすでに滅んだという。 正倉院には、笙・竽が各3個ずつ残されている。この正倉院の笙・竽はともに17管で、この竽の音域は笙より1オクターブ低いものであった。このうち呉竹笙は全長49センチメートル、呉竹竽(くれたけのう)は全長97センチメートルであった。復元された楽器が近年演奏されている。
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日本への伝播
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 00:39 UTC 版)
明治時代から大正時代にかけて、旭日旗は占領地で皇軍(天皇の軍隊)の威勢を示すために天皇旗などと共に掲げられる慣習があったが、日中戦争の前後から、国境を越えて人種差別のない平和な世界を実現させるという大東亜共栄圏構想が推進されると、日章旗(日の丸)が占領地では住民を教化する象徴として掲げられるようになった。そのため、戦後の日本では「アジアに対する侵略の象徴でもあった日の丸(民主党の新聞広告(1999年7月21日))」 とする主張や日独伊三国同盟を根拠にナチスドイツ時代のドイツ国旗(ハーケンクロイツ)と日章旗を同一視する見解もあった。このような背景から日本教職員組合を中心に公共の場で日章旗を掲揚することに反対する運動が展開されていたが(日本における国旗国歌問題)、ストライキなどの抗議活動により世論の支持を失っていき、広島県での同和解放同盟による教育介入で広島県立世羅高等学校校長が卒業式前日に自殺に追い込まれる事件により「国旗及び国歌に関する法律」が制定されると、衰退の一途を辿ることになった。21世紀になると、国旗掲揚への罪悪感を持たない若い世代を「ぷちナショナリスト(香山リカ)」と社会的スティグマを与えようとしたが旧世代の若者論として顧みられることはなかった。 旭日旗は大漁旗や出産、節句の祝い旗、あるいは海上自衛隊の艦船の旗、日本国内で広く使用されており、全国高等学校野球選手権大会では主催者の朝日新聞社の社旗である八条旭日旗が掲げられているが公論となったことはない。しかしながら、活動家たちの高年齢化や裁判の相次ぐ敗北により国旗掲揚反対闘争運動の破綻が免れない状況を迎える と、日章旗の「アジア侵略の象徴」「ハーケンクロイツとの同一視」を旭日旗に換骨奪胎し、旭日旗を掲げる人たちへの社会的スティグマを「ぷちナショナリスト」から「ネトウヨ(ネット右翼)」へと先鋭化させて、韓国の旭日旗追放運動に追従するようになった。
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