遣唐使の目的とは? わかりやすく解説

遣唐使の目的

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 08:10 UTC 版)

遣唐使」の記事における「遣唐使の目的」の解説

中国先進的な技術政治制度文化ならびに仏教経典等の収集目的とされた。白村江の戦い日本大敗した後は、3回にわたり交渉任務となった遣唐使日本からは原材料朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品工芸品絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある貿易で、物品正倉院にも残る。それだけでは需要不足し、私貿易許可が必要で市場出入り制限されていたが、遣唐使一行調達努力をしていた。旧唐書倭国伝には、日本吉備真備推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当全て書物費やし帰国していったと言う話が残されている。 第一次遣唐使は、舒明天皇2年630年)の犬上御田鍬派遣によって始まった。本来、朝貢中国の皇帝に対して1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国ある日本の朝貢毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国倭国冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している。 貞観5年使い遣わして方物を献ず太宗その道遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝) 太宗貞観5年使い遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝) なお、日本以前遣隋使において、「天子国書」を送って煬帝怒らせている。遣唐使の頃には天皇号使用したと、中国の皇帝対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本対等国家として扱ったという記述存在せず天皇号使用自体伏せていたとされる。むしろ天平勝宝5年753年)の朝賀において、日本遣唐使副使大伴古麻呂新羅使者席次争い日本新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国女王卑弥呼倭の五王中国王朝臣下としての冊封受けていたのに対し遣唐使時代には日本の天皇唐王朝から冊封受けていない。 その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年1度)の朝貢8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年間隔遣唐使派遣が行われた。 遣唐使200年以上にわたり、当時先進国であった唐の文化制度、そして仏教の日本への伝播大い貢献した

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