斗南藩とは? わかりやすく解説

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斗南藩

読み方:トナミハン(tonamihan)

明治初期陸奥国藩名


斗南藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:59 UTC 版)

会津戦争」の記事における「斗南藩」の解説

領土失った会津藩武士らは、翌年明治3年1870年謹慎解かれ転封先として「猪苗代町福島県耶麻郡)」と「斗南現在の青森県むつ市)」のどちらか明治政府により提示され最終的に斗南選択し、旧会津藩士4700名余が移住して三戸藩を立て明治3年6月に名称を斗南藩と改めた会津出身軍人柴五郎によると「斗南」は漢詩からとったとの説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩存在せず会津藩士・秋月悌次郎慶応元年(1865年)に蝦夷左遷された際に詠んだ唐太以南皆帝州」との類似指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南トハ南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分立って北斗以南」の意義付けが行われたとの解釈もある。

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斗南藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 16:59 UTC 版)

斎藤一」の記事における「斗南藩」の解説

会津藩降伏後改易され、会津松平家家名断絶となったが、明治2年1869年11月3日再興許された。知行高陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代下北半島松平家側で選ぶこととされた。東京捕虜となっていた山川浩旧藩幹部は、越後高田謹慎していた藩士らに諮ることなく下北半島選択藩名新たに斗南藩と命名され斎藤も斗南藩士として下北半島赴いた斎藤は斗南藩領の五戸移住し篠田やそと結婚した篠田家『諸士系譜』からも確認される名家で、会津藩士としては大身属する。白虎隊士中二番隊に属し飯盛山自刃した篠田三郎とは遠縁にあたる。後年明治7年1874年3月17日、元会津藩大目付高木小十郎の娘・時尾再婚した。元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老佐川官兵衛山川浩倉沢平治右衛門が下仲人務めた。この時、氏名藤田五郎改名している。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けることになる。

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斗南藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 04:11 UTC 版)

会津藩」の記事における「斗南藩」の解説

斗南藩(となみはん)は、明治2年1869年11月3日松平容保嫡男・容大に家名存続許され成立した七戸藩を挟む形で現青森県東部にあった藩である。 会津藩没収され会津松平家は、改めて元盛岡藩南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡三戸郡二戸郡内に3万石与えられ立藩した(旧三戸県残部江刺県編入)。斗南藩に与えられ数、石高は、明治4年青森県から大蔵省送られ文書によると以下の通りである。 斗南藩の石高郡名石高(石.斗升合)二戸郡 12 3,969.416 三戸郡 50 22,048.680 北郡 46 8,729.369 総計 108 34,747.465 ただし、旧会津藩士4700名余が謹慎解かれたのは翌年明治3年1870年1月5日のことである。当初三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた柴五郎によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩存在せず会津藩秋月悌次郎慶応元年(1865年)に蝦夷左遷された際に詠んだ唐太以南皆帝州」との類似指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南トハ南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分立って北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される。また葛西富夫は、「南、すなわち薩長政府と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝紹介している。同年4月18日南部移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門指揮のもと第一300名が八戸上陸した藩主となった松平容大は、藩士冨田重光の懐に抱かれ駕籠乗り五戸向かった。旧五戸代官所最初藩庁になり、後に現在の青森県むつ市田名部円通寺移った。また北海道後志国歌棄(うたすつ)・瀬棚・太(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配となった実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった明治3年10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,3321万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残り族籍平民移した。 斗南藩の表高は3万石内高は35000であったが、藩領多く火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際税収である収納高(現石)は7380石に過ぎなかった。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人領民との軋轢生じたとりわけ下北半島移住した会津藩士は苦しい生活を強いられその時体験柴五郎によって語られている。その後、斗南藩は明治4年1871年7月14日廃藩置県斗南県となり、その際斗南少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年9月4日弘前県・黒石県・七戸県八戸県・館県との合併経て青森県編入され斗南地名消滅したまた、二戸郡一部岩手県編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7327人のうち3300人は既に他地域への出稼ぎ離散してしまっており、青森県内には1万4000人余の斗南藩士卒族が残留していた。その後廃藩置県による旧藩の上京により、移住してきた者の送籍離散が相次ぎ明治7年1874年)末までには約1万人が会津帰郷している。当地に留まった者では、明治5年1872年)に広沢らが日本初民間洋式牧場開設したほか、入植先の戸長町村長吏員教員となった者が多く子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員郡長県会議員市町村長青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年1884年子爵となり、華族列した藩主松平容大まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事

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