斗南の秀才と彷徨とは? わかりやすく解説

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斗南の秀才と彷徨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:44 UTC 版)

斗南先生」の記事における「斗南の秀才と彷徨」の解説

斗南)は、数え年6歳から白文論語素読課せられ、作文134歳の頃から専ら漢文用いるように馴らされ育った6歳で本を一読するとすべて暗誦してしまうほどの暗記力だった端を、父・撫山は大い喜んだという。漢詩作ることも覚えたは、13歳創作し始めた詩文でも巧み秀才ぶりをみせた。 しかし端幼い頃から身体弱く大病臥せることも多かった。父が剣術教えて打ち込みや撃刺を習わせると、端身体徐々に健康になったが、生涯服用してなければならかった。そうした虚弱な体質により、徴兵もされず学業中途半端であった斗南自身不孝不忠恥じて、自らを「廃人」に分類していた。 斗南異母兄・綽軒の栃木県私塾「明誼(めいぎ)学舎」を手伝った後、24歳から埼玉県南埼玉郡久喜町(現・久喜市)の父の私塾幸魂こうこん)教舎」内の「言揚学舎」で教授陣として働いた31歳の頃には地域有力者たちと共に无邪志会(むさしかい)」を結成し国士的な内容の『日本外交史』という著書33歳時に出版した30歳の頃には「肌香夢史(はだかむし)」という筆名小説野路村雨』を出版したこともあった。小説主人公太田」は、保安条例反対し「皇居三里の地」まで追放され病弱青年で、有為青年悲運陥る内容である。独身であった斗南は、他の弟たち結婚し独立した後も埼玉県久喜町実家残った斗南35歳時に同志宮内翁助とともに私立専門学校明倫館」を開いた想定よりも生徒が集まらず、6年後にそこを退いて外交問題関心方に重心が傾いていった。そして1902年明治35年)の43歳の時に杉浦重剛一行とともに初め中国渡り人士と会って意見交換などしながら以後9年の間、中国各地往来する彷徨的な生活を送った斗南中国外交問題研究をするかたわら羅振玉の所に居候しながら日本文献翻訳漢訳)の仕事をしたり、教員仕事をしたりしたが、同じく中国にいた弟の竦(玉振)の所に身を寄せ、比多吉からの情報得ていたこともあった。 日本戻っている時の斗南は、老母未亡人の姉・ふみ、姪たち(亡くなった異母兄・靖の遺児たち)と暮らしていた。父・撫山も亡くなり離婚した弟・田人幼子・敦が久喜市引き取られた頃の斗南52歳で、敦の養育もしなければならなかった。 53歳時に『支那分割の運命』出版した斗南は、その後雑誌寄稿求められるようになり、数々評論発表した。自らを「東西南北の人」と称したように、43以後後半生日本中国往来する彷徨生活を送り生涯自分の家持たず独身のままであった斗南は、1930年昭和5年6月13日没した享年71)。 死後、弟の玉振の編纂により1932年昭和7年10月1日に、斗南漢詩漢文収めた遺稿詩文集『斗南存稾』が文求堂書店から刊行された。これらの作品古体近体ともに秀作多く浪漫的性格斗南には詩才もあった。『斗南存稾』には親友羅振玉序文寄せ斗南様々な彷徨エピソード国士気質書かれている

※この「斗南の秀才と彷徨」の解説は、「斗南先生」の解説の一部です。
「斗南の秀才と彷徨」を含む「斗南先生」の記事については、「斗南先生」の概要を参照ください。

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