斗南の秀才と彷徨
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端蔵(斗南)は、数え年の6歳から白文の論語素読を課せられ、作文も13、4歳の頃から専ら漢文を用いるように馴らされて育った。6歳で本を一読するとすべて暗誦してしまうほどの暗記力だった端蔵を、父・撫山は大いに喜んだという。漢詩を作ることも覚えた端蔵は、13歳で創作し始めた詩文でも巧みな秀才ぶりをみせた。 しかし端蔵は幼い頃から身体が弱く大病で臥せることも多かった。父が剣術を教えて打ち込みや撃刺を習わせると、端蔵の身体は徐々に健康になったが、薬は生涯服用していなければならかった。そうした虚弱な体質により、徴兵もされず学業も中途半端であった斗南は自身の不孝・不忠を恥じて、自らを「廃人」に分類していた。 斗南は異母兄・綽軒の栃木県の私塾「明誼(めいぎ)学舎」を手伝った後、24歳から埼玉県南埼玉郡久喜町(現・久喜市)の父の私塾「幸魂(こうこん)教舎」内の「言揚学舎」で教授陣として働いた。31歳の頃には地域の有力者たちと共に「无邪志会(むさしかい)」を結成し、国士的な内容の『日本外交史』という著書を33歳の時に出版した。 30歳の頃には「肌香夢史(はだかむし)」という筆名で小説『野路乃村雨』を出版したこともあった。小説の主人公「太田」は、保安条例に反対し「皇居外三里の地」まで追放された病弱の青年で、有為の青年が悲運に陥る内容である。独身であった斗南は、他の弟たちが結婚し独立した後も埼玉県久喜町の実家に残った。 斗南は35歳の時に同志の宮内翁助とともに私立専門学校「明倫館」を開いたが想定よりも生徒が集まらず、6年後にそこを退いて、外交問題の関心の方に重心が傾いていった。そして1902年(明治35年)の43歳の時に杉浦重剛の一行とともに初めて中国に渡り人士と会って意見交換などしながら、以後9年の間、中国各地を往来する彷徨的な生活を送った。 斗南は中国で外交問題の研究をするかたわら、羅振玉の所に居候しながら日本文献の翻訳(漢訳)の仕事をしたり、教員の仕事をしたりしたが、同じく中国にいた弟の竦(玉振)の所に身を寄せ、比多吉からの情報を得ていたこともあった。 日本に戻っている時の斗南は、老母や未亡人の姉・ふみ、姪たち(亡くなった異母兄・靖の遺児たち)と暮らしていた。父・撫山も亡くなり、離婚した弟・田人の幼子・敦が久喜市に引き取られた頃の斗南は52歳で、敦の養育もしなければならなかった。 53歳の時に『支那分割の運命』を出版した斗南は、その後に雑誌に寄稿を求められるようになり、数々の評論を発表した。自らを「東西南北の人」と称したように、43歳以後の後半生を日本と中国を往来する彷徨生活を送り、生涯自分の家を持たずに独身のままであった斗南は、1930年(昭和5年)6月13日に没した(享年71)。 死後、弟の玉振の編纂により1932年(昭和7年)10月1日に、斗南の漢詩・漢文を収めた遺稿詩文集『斗南存稾』が文求堂書店から刊行された。これらの作品は古体・近体ともに秀作が多く、浪漫的性格の斗南には詩才もあった。『斗南存稾』には親友の羅振玉が序文を寄せ、斗南の様々な彷徨のエピソードや国士気質が書かれている。
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