政権構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:56 UTC 版)
松永久秀(松永弾正) 松永長頼(内藤宗勝) 三好長逸 三好宗渭 石成友通(岩成友通) 篠原長房 三好康長(三好咲岩) 三好政権は室町幕府の旧体制をそのまま受け継いだ武家政権だった。将軍を傀儡として政所執事の伊勢貞孝と協力して幕政を牛耳り、幕府の要職を名誉職として全国の有力諸大名に与えることで諸大名を懐柔するなど、幕府機能を最大限に利用している点がそれを物語っている。そのため、三好政権は内部構造が非常に脆弱で、その政権は長慶個人の才能と実弟の三好実休・安宅冬康・十河一存らと嫡男の三好義興という限られた人物の存在によって成立しているに過ぎなかった。ただし、こうした見方は一致を見ているものではなく、三好政権は旧来の政治構造を取り込みつつも将軍・管領といった上位権力の意思(上意)とは全く無関係に行動し、国人層の支持を得ることで上位権力やその権威・枠組を相対化することで成立した政権であり、細川政権(=室町幕府体制)との明らかな政治的断絶が存在するとの指摘もある。織田政権が足利義昭の追放後に三好政権にならった統治方法を採用したように、三好政権は統一政権に先駆する存在であるとも言える。 ただし、三好政権自体も上意から完全に自立した存在とは言えず、足利義輝もまた半ば強引に三好長慶父子や松永久秀に栄典を授け、彼らを室町幕府の儀礼秩序に取り込むことで彼らは儀式などを名目として幕府への出仕を余儀なくされ、永禄年間には足利将軍による三好政権の統制にある程度までは成功している。ただし、同時にそれが長慶父子の死後に三好氏(特に三好三人衆)の警戒感を強めて永禄の変の一因になったのではないか、とする指摘もある。 経済力では堺を支配下に置くなどして他の諸大名を凌駕するほどのものだったが、その領国支配は複雑で、旧細川領国地域でも芥川山城などを根拠に長慶の直轄支配が進められた摂津・山城および堺、実休に統治を任せた三好氏本来の拠点である阿波、冬康・一存を養子に送り込んで支配した淡路・讃岐、三好政権成立の過程で三好氏の軍事力に従ってその立場を安堵された元守護代を国主とする体裁を取った丹波(内藤氏)・和泉(松浦氏)では統治の形態が異なり、永禄元年頃から始まった旧細川領国以外への進出の過程でも、重臣の松永氏を国主に送り込んだ大和に代表されるように、均一な支城体制の編成など、画一化された統治が採用されることらなかった。 三好政権は朝廷との関係も他の大名に比べると極めて特殊であった。長慶の官途は筑前守、修理大夫で、これは官途としては平凡なものである。また、長尾景虎(上杉謙信)が上洛して綸旨を得ようと工作した際に、それを妨害した形跡が見られない一方で、内裏の修築や各種儀礼において費用を工面して献金するといったこともしていない。今谷明は「こうした姿勢は長慶の天皇への無関心さを彷彿とさせるが、実は三好政権の置かれた立場の非常に特殊なことを表す証左」と指摘している。 山城を初めとする畿内では禁裏、公家が把握する荘園が多い。そうした地域での年貢、軍役の徴収、検地は困難を極める。一方で、こうした勢力に遠慮をし過ぎれば、領国経営に支障をきたしてしまう。今谷は、長慶は阿波・讃岐・淡路と言った旧来の領国と、堺を本拠地として押さえ、それ以外の所領については「緩やかな支配」で臨まざるを得なかったと指摘している。また今谷は、長慶は三好家の家臣団が公家の荘園を勝手に押領することがあっても、それをある程度は「黙許」していただろうとも指摘する。
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