政権政党に飛躍と下野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 02:09 UTC 版)
「オーストリア自由党」の記事における「政権政党に飛躍と下野」の解説
1993年の党分裂に関わらず、オーストリア自由党(FPÖ)は野党として驚くべき躍進を遂げ、1999年の国民議会選挙で26,9 %の得票率を得て第2党になった。2000年にはオーストリア国民党とオーストリア自由党(FPÖ)の連立政権が成立し、ヴォルフガング・シュッセル首相率いる内閣に加わった。オーストリア自由党(FPÖ)のスザンネ・ライス=パッサーが副首相として入閣した。極右政党であると見られたオーストリア自由党(FPÖ)の政権参加は激しい批判を招いた。党内において批判が巻き起こっただけでなく、対外的にも批判が受け、欧州連合(EU)諸国はオーストリア連立政権に対して制裁措置を発動するに及んだ。さらに、オーストリア自由党(FPÖ)には閣僚としての適性を持つ人材が少ないことが明らかになり、エリザベート・シックル、ミヒャエル・クリューガー、ミヒャエル・シュミットら閣僚に就任した政治家たちが個人の能力不足で短時間で交代することになった。連立政権に入った中庸なグループと党内にいるイェルク・ハイダーの支持者たちの間で、調停不可能な深刻な対立が起きたために、2002年秋に、閣僚であったカール・ハインツ・グラッサーとペーター・ヴェステンターラーが辞職し、新たな政治家を閣僚に選任することになった。2002年にはインターネットサービスプロバイダ企業が不祥事を起こし、オーストリア自由党(FPÖ)は一年間を通して経済スキャンダルに巻き込まれた。2005年には再び下野した。
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