平城朝
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大同元年(806年)平城天皇即位に伴って正四位下・参議(のち観察使制度の設置により山陽道観察使)に叙任され公卿に列した。また、皇太弟に立てられた神野親王(後の嵯峨天皇)の皇太弟傅にも任じられている。 この頃から園人は積極的な政策提案を行い、多くが採用された。園人の民政提案は、百姓撫民(貧民救済)と権門(皇族・有力貴族・寺社)抑制の2つの大きな方針から構成されていた。当時は律令制の本格施行から1世紀が経過し、均等な階層として想定されていた百姓層の階層分化が進行しつつあった。大多数の百姓は次第に貧民化していき、ごく少数の富豪百姓らに従属していく等、従前の共同体秩序が変質し始めていた。さらに有力貴族・寺社等の権勢家(権門)が、自らの経済基盤を強化するため、墾田永年私財法による規制面積以上に土地を開発し、百姓層の生活を圧迫する状況が見られた。百姓層の均質性は律令制維持のための前提条件であり、園人の政策提案は、百姓層の均質性維持、ひいては律令制維持を図ったものであり、園人の政策を採用した当時の政府もまた、律令制維持を企図していたのである。 なお、この頃に園人が建言し採用された施策として、以下のものがある。 西海道(九州地方)から平安京に向かう使人が多数に上り、使人送迎への動員により、西海道の庶民が疲弊している。従って、大宰府を含む西海道諸国の五位以上の官人は国司の任期(4年)が満了した者を除いて入京を禁止すべきである。 山海から得られる収穫は公私で共有すべき物であるが、権勢家が占有して百姓の利用を閉め出している。しかし、愚かな役人はこの状況を許し、敢えて諫止していないため、人民は甚だしく衰亡している。従って、慶雲3年(706年)の詔に従って、権勢家の占有を一切禁止すべきである。 播磨国は封戸が多数設置され、封戸租を運搬するための負担が百姓が疲弊している。加えて、平安京に近いことから頻繁に雑用を課せられるため、費用に充当するための動用穀が不足し、長年蓄えていた不動穀も消費して、僅か9万斛(石)しか残っていない。従って、春宮坊と諸寺の封戸を東国へ移すべきである。 山陽道(播磨国・備中国・備後国・安芸国・周防国)の5ヶ国は、しばしば不作が発生し人民が疲弊していたため、延暦4年(785年)から延暦24年(805年)迄の間に庸と雑穀の未進が少なからず発生している。この未進分を本来の課税品目で徴収しようとしても、担当すべき当時の国司は死亡あるいは交代していて実施は難しく、百姓も病と飢えで運搬に非常に困難を伴う。そのため、未進分は正税に混合して穎稲の形で収納すべきである。 山陽道諸国では長年疲弊しており、徴税が困難となっている。加えて、大同4年(809年)4月28日の恩赦によって、徴税担当国司の未徴収の罪は赦免されているため、後任に未徴収分の徴税させる他はないが、実施に非常に困難を来している。従って、朝廷の財政逼迫状況を踏まえて、大同元年(806年)以降の庸調・雑米の未進は全て徴収するが、他雑物で恩赦以前の未進については徴収を免除する事によって、人民の負担軽減及び後任国司が前任国司の責任を負う事の回避を図るべきである。
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平城朝
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延暦25年(806年)平城天皇が即位すると、同年4月に桓武朝で競うように昇進しつつも常に官位で後塵を拝していた藤原雄友と同時に大納言に昇進する。さらに右大臣・神王の薨御を受けて、同年5月には正三位・右大臣に叙任され、遂に藤原雄友を越えて台閣の首座を占めた。この人事については、平城天皇との関係が微妙な伊予親王の外戚であった雄友ではなく、長男・真夏を春宮坊の官人として皇太子時代から平城天皇に接近させていた内麻呂を首班として据えたい平城天皇の意志によるものと想定されている。また、同年8月に侍従を兼任しているが、それまで内麻呂のような太政官の首班が兼任した前例はない。これは、平城天皇との関係の一層の緊密化を図る内麻呂からの申し出で実現したと見られ、天皇と姻戚関係がないまま首班となった内麻呂は、侍従を兼任して近侍することで天皇の後見的な立場を得て、立場の安定化を図ったものと考えられる。 大同2年(807年)に発生した伊予親王事件では、藤原雄友からいち早く事情(藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めている事)を知るものの、平城天皇を諫める等の対応を取らず状況を静観する。結局、雄友は流罪となって失脚し、結果的に内麻呂の政治的影響力はさらに伸長する事となった。こうして内麻呂は平城天皇の信任を背景に権力を握っていたが、一方で皇太子の神野親王(後の嵯峨天皇)に対しても、次男の冬嗣を春宮坊の官人として送り込み、さらに娘の緒夏を入内させる等、密接な関係を築いていた。 内麻呂が右大臣に昇進して以降、平城朝で発行された太政官符は66件あるが、不明の6件を除く60件全てで内麻呂が符宣上卿となっており、平城朝においては平城天皇と内麻呂が主導する体制で政治が進められていたと見られる。また、大同元年(806年)に食封1000戸の加封がなされていること、さらに当時三位以上の公卿全員に浅紫の朝服の着用が義務づけられていたところ、大同4年(809年)には内麻呂のみ中紫の朝服の着用が許されていることから、内麻呂に対する平城天皇の信頼の厚さが窺われる。大同4年(809年)正月に従二位に叙せられた。
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