平城宮の朝庭とは? わかりやすく解説

平城宮の朝庭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)

朝庭」の記事における「平城宮の朝庭」の解説

元明天皇710年和銅3年)に遷都された平城京では、北部中央宮城平城宮設けられ内裏朝堂太政官はじめとする官庁群がおかれた。京北端の高燥土地に宮を設けたことにより、「天子南面す」の原則貫かれることとなり、排水問題解消したまた、朱雀大路の幅は藤原京の3倍にもおよび、道路としての実用性越えた隔絶した規模をもつこととなり、平城京南面には低いながら羅城設けられた。このように平城京および平城宮は、藤原京藤原宮から受けついだ性格と、唐の長安城から影響受けた性格兼ね備えている。ただし、東面北から4分の3くらいが東に2坪分張り出し南東隅のみが隅欠きになる特異な構造採用している点は他の宮と大きく異なる点である。 平城宮では、大極殿をふくむ朝堂区画朝堂院)、朝庭区画それぞれ2つあった。 1つは宮の東側壬生門北にある、従来型朝堂院太政官院)および朝庭で、朝政および朝拝中心とする朝儀の場であった朝堂の北には大極殿建ち、その南には朝庭中心に12朝堂建ち並んで、最も南には朝集殿位置していた。未明出勤した官人はおよそ1万人におよぶといわれる宮城門の開閉は、陰陽寮漏刻博士水時計計った時刻知らせ太鼓の音によっておこなわれた。そこにおける儀式では、天皇大極殿御し大極殿門をはさんで朝庭には文武百官が列を組んで立ち並ぶかたちとなった。 もう1つは、宮の中央朱雀門北にあり、もっとも重要な国家大礼おこなわる場として、天皇即位儀や元日朝賀また、節会外国使使節謁見など饗宴中心とする儀式のために使用され大極殿院の朝庭である。大極殿門に天皇出御し、左右2堂計4堂の殿舎の並ぶ朝堂臣下のいる場所となった渡辺晃宏は、以上のような機能区分は、長安城太極宮大極殿大明宮正殿意識したものではないか、としている。なお、朝庭からは、即位儀式おこなわれた大嘗宮建物跡が見つかっている。仁藤敦史によれば第一次大極殿は、745年天平17年)の平城還都後、木簡史料などにあらわれる「西宮」に改造されたとしている。また、その改造は、発掘調査の成果からは、還都直後ではなく早くとも天平勝宝年間749年 - 757年以降考えられており、天平神護765年 - 767年)のころには積極的な改造なされた形跡がない。ことから、天平勝宝元年聖武天皇孝謙天皇への譲位、すなわち「聖武上皇」の成立と深い連関があるのではないか推測している。 平城宮では、上述のように、いまのところ朝庭に特別の舗装なされていた形跡確認されておらず、平安宮にあったとされる馳道」の痕跡もみられず、朝庭全体平坦にするための整地施されていたのみである。口頭による政治から徐々に文書による政治進みまた、曹司呼ばれる朝堂外の役所政務なかでも実務的事柄を扱うようになったため、前期難波宮藤原宮にくらべるとそれぞれの朝庭規模小規模化し、そのいっぽうで饗宴用の朝庭別に設けられ機能分化図られた。

※この「平城宮の朝庭」の解説は、「朝庭」の解説の一部です。
「平城宮の朝庭」を含む「朝庭」の記事については、「朝庭」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「平城宮の朝庭」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平城宮の朝庭」の関連用語

1
4% |||||

平城宮の朝庭のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平城宮の朝庭のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの朝庭 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS