平城宮の朝庭
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元明天皇の710年(和銅3年)に遷都された平城京では、北部中央に宮城平城宮が設けられ、内裏、朝堂、太政官をはじめとする官庁群がおかれた。京北端の高燥の土地に宮を設けたことにより、「天子南面す」の原則が貫かれることとなり、排水問題は解消した。また、朱雀大路の幅は藤原京の3倍にもおよび、道路としての実用性を越えた隔絶した規模をもつこととなり、平城京南面には低いながらも羅城が設けられた。このように、平城京および平城宮は、藤原京・藤原宮から受けついだ性格と、唐の長安城から影響を受けた性格を兼ね備えている。ただし、東面の北から4分の3くらいが東に2坪分張り出し、南東隅のみが隅欠きになる特異な構造を採用している点は他の宮と大きく異なる点である。 平城宮では、大極殿をふくむ朝堂区画(朝堂院)、朝庭の区画がそれぞれ2つあった。 1つは宮の東側、壬生門北にある、従来型の朝堂院(太政官院)および朝庭で、朝政および朝拝を中心とする朝儀の場であった。朝堂の北には大極殿が建ち、その南には朝庭を中心に12朝堂が建ち並んで、最も南には朝集殿が位置していた。未明に出勤した官人はおよそ1万人におよぶといわれる。宮城門の開閉は、陰陽寮の漏刻博士が水時計で計った時刻を知らせる太鼓の音によっておこなわれた。そこにおける儀式では、天皇が大極殿に御し、大極殿門をはさんで朝庭には文武百官が列を組んで立ち並ぶかたちとなった。 もう1つは、宮の中央、朱雀門北にあり、もっとも重要な国家大礼のおこなわる場として、天皇即位儀や元日朝賀、また、節会や外国使使節謁見など饗宴を中心とする儀式のために使用された大極殿院の朝庭である。大極殿門に天皇が出御し、左右2堂計4堂の殿舎の並ぶ朝堂が臣下のいる場所となった。渡辺晃宏は、以上のような機能区分は、長安城の太極宮大極殿と大明宮含正殿を意識したものではないか、としている。なお、朝庭からは、即位儀式のおこなわれた大嘗宮の建物跡が見つかっている。仁藤敦史によれば、第一次大極殿は、745年(天平17年)の平城還都後、木簡や史料などにあらわれる「西宮」に改造されたとしている。また、その改造は、発掘調査の成果からは、還都直後ではなく、早くとも天平勝宝年間(749年 - 757年)以降と考えられており、天平神護(765年 - 767年)のころには積極的な改造がなされた形跡がない。ことから、天平勝宝元年の聖武天皇の孝謙天皇への譲位、すなわち「聖武上皇」の成立と深い連関があるのではないかと推測している。 平城宮では、上述のように、いまのところ朝庭に特別の舗装がなされていた形跡は確認されておらず、平安宮にあったとされる「馳道」の痕跡もみられず、朝庭全体を平坦にするための整地が施されていたのみである。口頭による政治から徐々に文書による政治が進み、また、曹司と呼ばれる朝堂外の役所が政務のなかでも実務的な事柄を扱うようになったため、前期難波宮や藤原宮にくらべるとそれぞれの朝庭の規模は小規模化し、そのいっぽうで饗宴用の朝庭が別に設けられて機能分化が図られた。
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