レースでの成績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 21:25 UTC 版)
ル・マン24時間には1997年に初参戦した。予備予選ではクラス1位を獲得する順調なスタートであった。しかし、リヤトランクの仕切りをメッシュ製とした構造に対し、市販モデルと同様のトランクスペースを設けるようにと指摘された。そこで急遽トランクを密閉構造の箱形に変更したが、ギアボックスの冷却が阻害されるトラブルが発生し、結果は残せなかった。また、日産とTWR間のコミュニケーションの問題も露呈した。 翌1998年の参戦時には、前年型マシンの弱点であったギアボックス冷却の改善、ロングテール化などの空力改善、TCSやABSなどを導入するなどし、性能を向上させた。さらに日産とTWRの連携を確実にしてチーム体制を強化した。堅実な周回ペース戦略により、星野一義・鈴木亜久里・影山正彦の乗るマシンが総合3位を獲得し、ノバエンジニアリングからJOMOのスポンサードによってエントリーした車両を含む出走した4台全車が10位以内で完走した。 1997年のル・マン24時間レースエントラントNo.ドライバー周回数 (首位との差)順位ニッサン・モータースポーツ 21 マーティン・ブランドル 139 DNF ウェイン・テイラー ヨルグ・ミューラー 22 鈴木亜久里 121 DNF リカルド・パトレーゼ エリック・バン・デ・ポール 23 星野一義 294 (+67) 12 影山正彦 エリック・コマス 1998年のル・マン24時間レースエントラントNo.ドライバー周回数 (首位との差)順位ニッサン・モータースポーツ 30 ジョン・ニールセン 342 (+9) 5 フランク・ラゴルス ミハエル・クルム 31 エリック・コマス 342 (+9) 6 ヤン・ラマース アンドレア・モンテルミーニ 32 星野一義 347 (+4) 3 鈴木亜久里 影山正彦 ニッサン・モータースポーツ with NOVA 33 黒澤琢弥 319 (+32) 10 影山正美 本山哲
※この「レースでの成績」の解説は、「日産・R390」の解説の一部です。
「レースでの成績」を含む「日産・R390」の記事については、「日産・R390」の概要を参照ください。
レースでの成績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:15 UTC 版)
1974年にシグマ・オートモーティブからル・マン24時間、1975年にマツダオート東京から富士グランチャンピオンレース(GC)に参戦した。
※この「レースでの成績」の解説は、「シグマ・MC74」の解説の一部です。
「レースでの成績」を含む「シグマ・MC74」の記事については、「シグマ・MC74」の概要を参照ください。
レースでの成績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 07:25 UTC 版)
1995年 ル・マン初参戦。カーナンバーは26。予選タイムは4分11秒03で31番グリッド。決勝はクラッチのトラブルでわずか14周でのリタイアとなった。吉川とみ子もドライブする予定であったが、基準タイムを超える事が出来ず予選落ちし、決勝はアラン・フェルテ、ケニー・アチソンの二人のみでのドライブとなった。 後の8月27日開催された BPR GT のシリーズ第九戦、鈴鹿ポッカインターナショナル1000km耐久レース (以下「鈴鹿1000km」)にスポット参戦。カーナンバーは3で、ルマン参加車両とは異なり青にペイントされていた。ドライバーはアラン・フェルテ、マウロ・マルティニ、ジェフ・クロスノフの3人。決勝では132周を走り総合26位、クラス10位の結果でレースを終えた。 1996年 外観、内部共に大きくモディファイして参戦。シャシーを改良し前年と比べ200 kg以上もの軽量化に成功。フロント・トレッドを拡大し、ギアボックスをヒューランド製の6速からマーチ製の5速に変更している。カーナンバーは46。予選は4分09秒353で38番グリッド。ドライバーはアラン・フェルテ、パスカル・ファブレ、マウロ・マルティニの3人で、決勝では256周を走り切り総合24位、クラス15位で完走を果たした。 後の8月25日に開催されたBPR GTのシリーズ第七戦、鈴鹿1000kmにスポット参戦。予選タイムは2分06秒014で11番グリッドからのスタート。カーナンバーは46、ドライバーはアラン・フェルテ、マウロ・マルティニ、長坂尚樹の三人。決勝は6周でリタイアとなっている。 1997年 スープラでのプロジェクトが終了した本年度も2台体制で参戦。前年と比べさらに全体的に大幅な改良を施して参戦するも、予備予選でオリビエ・グルイヤールがタイムアタック中に、マシンの不具合によりターボの過給圧が規定を上回る「オーバーシュート」が起きてしまっていたことが発覚。 34、35号車ともにベストタイムが抹消される裁定が下り、予備予選落ちという結果でルマンを終えた。ちなみにエンジン出力は前年より100馬力以上upしており、車重に至っては1000kgを下回っていた。 後の8月24日に開催されたFIA-GT選手権のシリーズ第七戦、鈴鹿1000kmに39号車と46号車の2台体制でスポット参戦。39号車がIDC 大塚家具サードから、46号車がチームメニコンサードからのエントリーとなった。39号車は2分04秒831で17番グリッド、46号車が2分06秒087でGT1クラス最下位の19番グリッドからのスタート。ドライバーは39号車が谷川達也・立川祐路・桧井保孝の3人、46号車が田中哲也・影山正美の2人。レース開始直後に39号車が16番グリッドスタートのロータス エリーゼGT1と接触してフューエルラインを損傷、そこから引火し炎上してしまいリタイア。46号車はレース中盤にオイルポンプのトラブルにより71周でリタイアする。ルマンでは予備予選落ち、FIA-GTは2台共にリタイアで終わり、結果を残せずにこの年限りで姿を消すこととなった。
※この「レースでの成績」の解説は、「サード・MC8R」の解説の一部です。
「レースでの成績」を含む「サード・MC8R」の記事については、「サード・MC8R」の概要を参照ください。
レースでの成績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 19:18 UTC 版)
1968年5月開催の'68日本GPには、高橋国光、北野元、砂子義一の3台がエントリーした。予選は高橋、北野が1-2位。決勝レースでは高橋はホイールトラブルでリタイア、砂子はオーバーヒートで遅れるが、北野が独走で優勝。R38シリーズとしては2年ぶり、日産自動車としては初の日本グランプリ制覇を成し遂げた。 後継モデルのR382の開発にシフトする過程で、R381は計画通りGRX-1型エンジンを搭載し、オール自社製マシンのR381-IIへと生まれ変わった。R380用のGR-8を2基組み合わせたGRX-1(4,963cc 60度V12 DOHC48バルブ)は、520馬力を発生した。ボディ形状も見直され、タイヤ幅はよりワイドになり、エアロスタビライザーの効果を高めるため、ウィングはより高い位置に設置された。 R381-IIは1968年12月からテストを行い、1969年5月のフジスピードカップでデビューし、北野元が優勝する。このレースでは日産自動車とタキレーシングが松竹配給映画『栄光への5000キロ』の撮影に協力しており、劇中では石原裕次郎演じる主人公がR381に乗り、日本GPに出場するという設定だった。 次いで6月の富士300kmにエントリー(決勝は雨のため出場見合わせ)。オイルクーラーをフロントからリアエンドに移設し、エンジン吸気管にインダクションポッドを取り付けた。 8月のNETスピードカップにも出場するが、この頃可変ウィングが禁止されたため、ウィングを取り払いリアスポイラーを付けての参戦となった。R381の走行安定性は前年の日本グランプリ時より劣り、予選で5リッターエンジンのトヨタ・7に先行を許し、決勝でもトヨタに敗れた。これがR381最後のレースとなった。
※この「レースでの成績」の解説は、「日産・R381」の解説の一部です。
「レースでの成績」を含む「日産・R381」の記事については、「日産・R381」の概要を参照ください。
レースでの成績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 19:19 UTC 版)
1969年の日本グランプリには、ワークスポルシェ・917、5リットルトヨタ・7が参戦、日本モータースポーツ史上、一つの頂点と呼べるレースとなった。このレースにR382は、高橋国光、都平健二、北野元、黒澤元治で3台が出場した。 予選でポルシェ、トヨタを抑えR382は1-2-3。決勝ではウィークポイントのクラッチに負担をかけないよう慎重なスタートとなり、ポルシェ、トヨタの先行を許すもすぐに抜き返し1-2-3フォーメーションを築く。その後、高橋・都平車がトラブルで遅れるも黒沢、北野で1-2フィニッシュ。日産にとって2年連続のグランプリ制覇となった。 翌1970年6月7日、富士インター300マイルに、R382はグランプリ以来初めて姿を見せる。このレースでも北野、黒沢で1-2フィニッシュを果たす。しかしこの翌日、日産自動車は公害対策に集中するため、70年日本グランプリの欠場を発表する。結果的にR38シリーズにとってこのレースが最後のレースとなった。その後日本グランプリ優勝車両(黒沢車)はアメリカのCan-Amシリーズ参戦の可能性を探るため米国に送られたが、現地でレースに参戦することはなく倉庫にしまわれたまま長い間放置された状態となった。
※この「レースでの成績」の解説は、「日産・R382」の解説の一部です。
「レースでの成績」を含む「日産・R382」の記事については、「日産・R382」の概要を参照ください。
- レースでの成績のページへのリンク