バフリー・マムルーク朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
「エジプトの歴史」の記事における「バフリー・マムルーク朝」の解説
サラーフッディーンの息子たちによって分割されたアイユーブ朝は緩やかな連合国家を形成したが、相互の利害は必ずしも一致せず、十字軍国家も巻き込んでの政争が行われた。そして、ヨーロッパから襲来する十字軍はこの時期、エジプトを主たる攻撃目標とした。1217年から始まった第5回十字軍はエジプトの重要な港湾都市ダミエッタ(ディムヤート)を1219年に占領した。エルサレムに入城した第6回十字軍(無血十字軍、1229年)を経て、第7回十字軍(1248年-1254年)を主導したフランス王ルイ9世が1249年にダミエッタを再占領した。 戦いの最中、アイユーブ朝のスルターンとしてカイロ政権を率いていたサーリフが陣中で病死(1249年)すると、妻のシャジャル・アッ=ドゥッルは軍の士気が崩壊するのを恐れ、夫が生きているかの如く振る舞って文書を発行し続けたという。そしてメソポタミアからサーリフの前妻の息子トゥーラーン・シャー(在位:1249年-1250年)が帰国し、スルターンとなった。サーリフが購入し組織したマムルーク軍団(バフリー・マムルーク軍団)とそれを指揮するバイバルスらによってフランス軍(第7回十字軍)は撃破され外敵の脅威は除かれたが、トゥーラーン・シャーは継母シャジャル・アッ=ドゥッルと折り合いが悪く、またバフリー・マムルーク軍団出身のアミール(将軍)たちを次々と逮捕して軍団の弱体化を図った。このためバイバルスらは1250年5月、クーデターを起こしトゥーラーン・シャーを殺害するとともに、シャジャル・アッ=ドゥッルをスルターンに推戴した。これがマムルーク朝の成立であり、バフリー・マムルーク軍団が政権中枢を占めた初期マムルーク朝時代はバフリー・マムルーク朝とも呼ばれる。またシャジャル・アッ=ドゥッルはイスラーム史上初の女性のスルターンとなった。しかし、女性スルターンの誕生には広範な反発が巻き起こり、情勢不穏を感じ取ったシャジャル・アッ=ドゥッルはバフリー・マムルーク軍団の総司令官(アター・ベグ)イッズッディーン・アイバクと結婚し、即位から80日後にこの新たな夫にスルターン位を譲渡した。 このマムルーク(奴隷)の政権に対しても、国土の正統な所有権を主張するアラブ遊牧民の反乱などが続き政権は安定しなかった。最終的に転機が訪れたのは中央アジアから到来したフレグ率いるモンゴル軍がシリアに侵入した時であった。これを迎え撃つため、バイバルスの指揮でバフリー・マムルーク軍団がシリアに向かい、1260年9月にアイン・ジャールートの戦いで圧勝を収めた。この勝利によってマムルーク朝は自らこそがイスラーム世界の真の防衛者であることを内外に強く印象付けることができた。また、ファーティマ朝期から継続していたバグダードからの知識人や商人の流入により、マムルーク朝時代にはエジプトがアラブ世界の政治・文化をリードする中心地としての地位を確立していくこととなる。モンゴルに追われたアッバース朝のカリフもマムルーク朝に逃げ込みその庇護を受けた。これはイスラーム世界におけるバグダードからの重心の移動を象徴する出来事であった。 紆余曲折を経つつも、マムルーク朝は血統原理による世襲ではなく、スルターン所有のマムルーク軍人の中から次代のスルターンを選抜するという特異な王位継承制度を発展させていった。マムルークはその来歴やスルターン所有のマムルークかアミール(将軍)所有のマムルークか、といった要素によって区別された。マムルークたちは幼い頃に奴隷商人を通じてスルターンやアミールに購入されて軍人養成所に入れられ、武芸学問の教育を受けた。そして成人後には主人の下で軍人として職務についた。彼らの養育費は全て主人の負担であり、主人とマムルークの関係は親子のようなものと見なされていた。また、同じ軍人養成所を出た仲間たちは同窓意識(フシュダーシーヤ)を強く持ち、マムルーク軍人たちにとって同窓関係は強い意義を持った。スルターン位を継ぐものは慣例としてスルターン所有のマムルークの中から選ばれ、たとえスルターンの子供であってもマムルークとして購入され軍人養成所を出たという経歴を持たないものはマムルーク軍団に入ることができず、スルターン位を継承することもできなかった。このためスルターンの子弟は自由身分出身者やマムルーク子弟からなる格下のハルカ騎士団に所属するか、軍人以外の道を選ばなければならなかった。 マムルーク朝の歴代スルターンはそれぞれに子飼いのマムルーク軍団を編成したため、時代の進展とともにマムルークとその子弟の人員は増大し13世紀末頃までにはイクターを付与する土地の枯渇が重大な問題として浮上するようになった。13世紀末にアミールたちの傀儡として即位したスルターンのナースィル・ムハンマドをマンスール・ラージーン(フサーム)が排除し、彼によって1298年に検知(ラージーン検知、フサーム検知)とイクターの再分配が試みられたが、スルターンのマムルーク軍団に著しく偏重した配分のために他のマムルーク軍団やハルカ騎士団の強い反発を受け、1299年にブルジー・マムルーク軍団の総司令官クルジー(Saif al-Din Kirji)らによって1299年にラージーンは殺害された。ブルジー・マムルーク軍団は、スルターン・カラーウーン(在位:1279年-1290年)が編成したマムルーク軍団である。その後、スルターン位を追われたナースィルが激しい権力闘争の中で玉座を奪還し、その後も退位と即位を繰り返して3度スルターンとなった。ナースィルもまたイクターの再分配を試み、史上名高いナースィル検知によって抜本的な税制改革を行うとともに、ジズヤ(人頭税)のイクターへの組み込みなどとあわせてバフリー・マムルーク朝の国家体制を一新した。 ナースィルの改革によって統治は安定したが、14世紀半ばに入ると黒死病(ペスト)の記録的な流行がエジプトを襲った。ペストはモンゴルによって中東地方に伝染したとも言われ、当時ユーラシア大陸の広い範囲で大流行となっていた。エジプトでも1347年の最初の流行以降、マムルーク朝の滅亡に至るまで、平均して8-9年に1度の割合でペストの流行が断続的に続き、総人口の4分の1から3分の1が失われたとされる。激しい人口減は兵力の減衰、税収の低下という形でマムルーク朝の支配体制を揺さぶり、税収の分配をめぐってスルターンやアミール間での争いも激化した。 ナースィルが1341年に死去した後、スルターン所有のマムルーク軍団から新スルターンを選定するというマムルーク朝の伝統は後退し、ナースィルの血族(ナースィルの父カラーウーンの子孫)がスルターン位に就くべきであるという意識が共有された。しかし実態はスルターンは傀儡と化して実権は有力なアミールたちの手に握られるようになり、やがて複数のアミールの合議による集団指導体制が形成された。その後もアミールやマムルーク軍団たちの権力闘争はやむことはなく、クーデターや武力蜂起が繰り返された。やがて、争いの中でブルジー・マムルーク軍団が優勢となり、その長バルクーク(在位:1382年-1389年、1390年-1399年)がスルターンに推戴された。これによりカラーウーンの子孫たちによるスルターン位の継承も終わり、以降の時代はブルジー・マムルーク朝と呼ばれる。また、このブルジー・マムルーク軍団の主要構成員がチェルケス人奴隷であったことから、チェルケス朝とも呼ばれる。
※この「バフリー・マムルーク朝」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「バフリー・マムルーク朝」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。
バフリー・マムルーク朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 09:57 UTC 版)
「マムルーク朝」の記事における「バフリー・マムルーク朝」の解説
詳細は「en:Bahri dynasty」を参照 アイバク以降のマムルーク朝の前期は、バイバルスをはじめとして多くがアイユーブ朝のサーリフが創めたバフリーヤの出身者が占めたため、この時期のマムルーク朝はバフリー・マムルーク朝と呼ばれる。 バイバルスの死後、その遺児バラカ、サラーミシュが相次いでスルタンに立ち、バイバルス家によるスルターン位の世襲が図られたが、バイバルスの同僚でバフリーヤの第一人者であった将軍カラーウーンによって、彼らは相次いで廃され、1279年、カラーウーンが自らスルターンの座についた。カラーウーンはバイバルスの政策を継承して、エジプトの国家建設を進めるとともにシリアでの軍事作戦を盛んに行い、1291年、カラーウーンの子アシュラフ・ハリールのときシリアにおける十字軍勢力最後の領土であったアッカーを征服してアイユーブ朝のサラーフッディーン以来の対十字軍戦争を最終勝利に導いた。 しかし、強力な君主であったカラーウーンの死後、マムルーク朝の中央政治は混乱した。アシュラフは在位わずかにして殺害され、幼い弟ナースィル・ムハンマドが立てられるが、やがてカラーウーン子飼いのマムルークたちとアシュラフのマムルークたちとの間で政権を巡る争いがおこり、ナースィルは廃位された。やがてカラーウーン派のマムルークが勝利してナースィルは実権のないスルターンとして復位させられ、1310年に自らクーデターを起こしてようやく親政を確立した。 ナースィルは自身の子飼いのマムルークを登用、領内の検地を行って忠実なアミール(マムルークの将軍)にイクター(徴税権)を授与し、絶対的な支配権を確立した。ナースィルのもとでジョチ・ウルスと同盟を結んでイル・ハン国との和解もはかられ、マムルーク朝の内外の情勢は安定し、首都カイロは国際商業都市・イスラム世界を代表する学術都市として栄えた。 1324年頃、メッカ巡礼(英語版)の途上だったマリ帝国のマンサ・ムーサ王がカイロに立ち寄り、ナースィルに大量の金の贈り物をしたことでカイロの金の相場が下落したと伝えられている。そのためか、晩年のナースィルは奢侈に走って財政を傾かせ、マムルークの力が強大になった。 ナースィルの死後、彼の子飼いのアミールたちはその子孫をスルターンに立てて傀儡とし、実権なきカラーウーン家の世襲支配が40年続いた。もっとも有力なアミールは大アミールとアターベクを兼ねて国政の実権を握ったが、その地位を巡る政争も激しく、スルターンや大アミールの失脚が繰り返し発生した。
※この「バフリー・マムルーク朝」の解説は、「マムルーク朝」の解説の一部です。
「バフリー・マムルーク朝」を含む「マムルーク朝」の記事については、「マムルーク朝」の概要を参照ください。
- バフリー・マムルーク朝のページへのリンク