アイン・ジャールートの戦い
アイン・ジャールートの戦い
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「バイバルス」の記事における「アイン・ジャールートの戦い」の解説
1258年にモンゴル帝国の王族フレグによってアッバース朝が滅ぼされた後、モンゴル軍の更なる進攻に対して、アラブ世界は恐慌状態に陥った。 ダマスカスのナースィルはモンゴル軍を恐れ、フレグの元に子のアジィーズを派遣して関係の改善を試みたが、フレグはナースィル自らが来朝しないことを詰り、降伏勧告を突きつけた。ナースィルの宰相ザイヌッディーンはモンゴルへの降伏を説いたが、当時ナースィルの元に亡命していたバイバルスは憤慨してザイヌッディーンを殴り、「あなたはイスラム教徒の滅亡を望んでいるのか」と罵ったと伝えられている。バイバルスはナースィルを暗殺して新しい君主を立てようと図ったが失敗し、仲間を連れてガザに移った。 一方ナースィルはモンゴル軍と交戦することなく軍隊を解散し、マムルーク朝とカラクのムギースに援助を求めた。モンゴル軍の侵入に際して、マムルーク朝では将軍ムザッファル・クトゥズが若年のスルターン・マンスール・アリーを廃位し、自らスルターンに即位した。バイバルスはクトゥズに使者を送って和解を申し入れ、身の安全を保障されたバイバルスたちはカイロに帰還した。クトゥズから対モンゴル戦の司令官に任じられたバイバルスは、シリアでの迎撃を進言した。 クトゥズはナースィルに協力を約束したが、フレグの率いるモンゴル軍はすでにシリアに進んでいた。モンゴル軍はアレッポ、ダマスカスを占領したが、フレグは行軍中に兄であるモンケ・ハーンの訃報に接し、ケドブカ・ノヤンを代理の司令官としてペルシャに帰還した。ケドブカはナースィルを捕虜とし、モンゴルの攻撃から避難した人々で溢れかえるエジプトに降伏を要求する使節団を派遣した。 カイロで開かれた会議でバイバルスを初めとする諸将は主戦論を唱え、クトゥズは開戦を決断し、使節団を処刑した。バイバルスが率いる前衛はガザに駐屯していたモンゴル軍を撃破し、進軍中にフレグがペルシャに退却した報告を受け取る。バイバルスは地中海沿岸部のキリスト教勢力から中立の約束を取り付け、彼らの領土を通過してダマスカスを目指した。1260年9月3日、進軍中のマムルーク軍はアイン・ジャールートでケドブカが率いるモンゴル軍に遭遇し(アイン・ジャールートの戦い)、バイバルスの率いる部隊はクトゥズの本隊と共にケドブカの軍を挟撃し、モンゴル軍に完勝した。アイン・ジャールートの勝利はモンゴル帝国のアラブ世界への拡大を食い止め、さらにはマムルーク朝によるエジプト・シリア再統合のきっかけを生み出すことになる。
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アイン・ジャールートの戦い
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「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「アイン・ジャールートの戦い」の解説
詳細は「アイン・ジャールートの戦い」を参照 モンゴル軍とアンティオキアのキリスト教徒の協力にも関わらず、レヴァント地域の他のキリスト教徒は、モンゴルの接近を不安をもって見ていた。エルサレム総主教のジャック・パンタレオン (後のローマ教皇ウルバヌス4世)は、モンゴル人をはっきりした脅威とみなし、1256年に彼らについて警告するために、教皇に手紙を書いた。しかし、教皇は1260年にドミニコ修道会に所属するアシュビーのダビデ(英語版)をフレグの宮廷に派遣したのみであった。シドンでは、シドンおよびボーフォート城の領主であったジュリアン・グルニエ(英語版)伯 (彼は同時代の人によって無責任かつ思慮の浅い人物と評されている) は、モンゴルの領地であるベッカー高原地域を急襲して、略奪する機会を得た。この略奪で出たモンゴル人死者の1人にキト・ブカの甥がいた。キト・ブカは報復としてシドンの都市を急襲した。この出来事はモンゴルと、この時点で拠点の中心が沿岸都市であるアッコに移った十字軍勢力との間に不信の疑念を増すこととなった。 アッコの十字軍はモンゴルとマムルーク朝の間で用心深く中立の立場を維持するため最大限の努力を尽くした。マムルーク朝との永い抗争の歴史にも関わらず、十字軍国家はモンゴルの方がより大きな脅威であると認め、慎重な議論の末、従来の敵とは消極的な休戦を結ぶことを選択しようと考えた。モンゴルから捕らえた馬を安価に購入する権利を得るのと引換えに、十字軍国家はマムルーク朝の軍隊がモンゴル攻撃のために北方へ向かう際に7キリスト教国家の領域を通過することを認めた。この休戦の結果、マムルーク軍はほど近いアッコに宿営、再補給が許され、1260年9月3日、ついにアイン・ジャールートでモンゴル軍と交戦した。モンゴル軍はその主力がフレグとともに撤退していたため既に消耗している状態であり、十字軍国家の受動的な支援によって、マムルーク軍はモンゴルに対する決定的かつ歴史的な勝利を成し遂げることができた。戦いに敗れたモンゴル軍の残党は、ヘトゥム1世によって受け入れられ、再編成されて、キリキア・アルメニア王国に編入された。モンゴル側から見ると局地戦かつ小規模な軍での戦闘であったとはいえ彼らが外敵に負けた初めての戦いであったため (厳密にはホラズムシャー朝のジャラールッディーンの軍団がモンゴルのシギ・クトク率いる3万騎を撃ち破ったアフガニスタンのパルワーンの戦いがあり、「初めて」ではない) 、モンゴルの歴史の大きなターニングポイントとなり、モンゴル帝国の止められないと思われた拡大に西の境界を設定することとなった。
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