アイン・ジャールートの戦いとは? わかりやすく解説

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アイン・ジャールートの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/29 08:17 UTC 版)

アイン・ジャールートの戦い(アイン・ジャールートのたたかい)は、1260年9月3日シリアパレスチナアイン・ジャールート英語版アラビア語: عين جالوت‎、‘Ayn Jālūt)で行われた会戦である。クトゥズ率いるマムルーク朝軍が、キト・ブカ率いるシリア駐留のモンゴル帝国軍およびキリスト教徒諸侯連合軍を破り、モンゴル帝国の西進を阻止した。




「アイン・ジャールートの戦い」の続きの解説一覧

アイン・ジャールートの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 19:34 UTC 版)

バイバルス」の記事における「アイン・ジャールートの戦い」の解説

1258年モンゴル帝国王族フレグによってアッバース朝滅ぼされた後、モンゴル軍更なる進攻に対してアラブ世界恐慌状態に陥ったダマスカスナースィルモンゴル軍恐れフレグ元に子のアジィーズを派遣して関係の改善試みたが、フレグナースィル自らが来朝しないことを詰り降伏勧告突きつけた。ナースィル宰相ザイヌッディーンはモンゴルへの降伏説いたが、当時ナースィル元に亡命していたバイバルス憤慨してザイヌッディーンを殴り、「あなたはイスラム教徒滅亡望んでいるのか」と罵った伝えられている。バイバルスナースィル暗殺し新し君主立てよう図った失敗し仲間連れてガザ移った一方ナースィルモンゴル軍交戦することなく軍隊解散しマムルーク朝カラクのムギースに援助求めたモンゴル軍の侵入に際してマムルーク朝では将軍ムザッファル・クトゥズ若年のスルターン・マンスール・アリーを廃位し、自らスルターン即位したバイバルスクトゥズ使者送って和解申し入れ、身の安全を保障されバイバルスたちはカイロ帰還したクトゥズから対モンゴル戦の司令官任じられバイバルスは、シリアでの迎撃進言した。 クトゥズナースィル協力約束したが、フレグ率いモンゴル軍はすでにシリア進んでいた。モンゴル軍アレッポダマスカス占領したが、フレグ行軍中に兄であるモンケ・ハーン訃報接し、ケドブカ・ノヤンを代理司令官としてペルシャ帰還した。ケドブカはナースィル捕虜とし、モンゴル攻撃から避難した人々溢れかえるエジプト降伏要求する使節団派遣したカイロ開かれた会議バイバルス初めとする諸将主戦論唱えクトゥズ開戦決断し使節団処刑したバイバルス率い前衛ガザ駐屯していたモンゴル軍撃破し進軍中にフレグペルシャ退却した報告受け取る。バイバルス地中海沿岸部のキリスト教勢力から中立約束取り付け、彼らの領土通過してダマスカス目指した。1260年9月3日進軍中のマムルーク軍はアイン・ジャールートでケドブカが率いモンゴル軍遭遇し(アイン・ジャールートの戦い)、バイバルス率い部隊クトゥズ本隊と共にケドブカの軍を挟撃し、モンゴル軍完勝した。アイン・ジャールートの勝利モンゴル帝国アラブ世界への拡大食い止めさらにはマムルーク朝によるエジプト・シリア再統合きっかけ生み出すことになる。

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アイン・ジャールートの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)

フランクとモンゴルの同盟」の記事における「アイン・ジャールートの戦い」の解説

詳細は「アイン・ジャールートの戦い」を参照 モンゴル軍アンティオキアキリスト教徒協力にも関わらずレヴァント地域の他のキリスト教徒は、モンゴル接近を不安をもって見ていた。エルサレム総主教のジャック・パンタレオン (後のローマ教皇ウルバヌス4世)は、モンゴル人はっきりした脅威とみなし、1256年に彼らについて警告するために、教皇手紙書いた。しかし、教皇1260年ドミニコ修道会所属するアシュビーダビデ英語版)をフレグ宮廷派遣したのみであったシドンでは、シドンおよびボーフォート城領主であったジュリアン・グルニエ(英語版)伯 (彼は同時代の人によって無責任かつ思慮の浅い人物評されている) は、モンゴル領地であるベッカー高原地域急襲して略奪する機会得た。この略奪出たモンゴル人死者1人キト・ブカの甥がいた。キト・ブカ報復としてシドン都市急襲した。この出来事モンゴルと、この時点拠点中心沿岸都市であるアッコ移った十字軍勢力との間に不信疑念を増すこととなったアッコ十字軍モンゴルマムルーク朝の間で用心深く中立立場維持するため最大限努力尽くしたマムルーク朝との永い抗争歴史にも関わらず十字軍国家モンゴルの方がより大きな脅威であると認め慎重な議論の末、従来の敵とは消極的な休戦を結ぶことを選択しようと考えたモンゴルから捕らえた馬を安価に購入する権利を得るのと引換えに、十字軍国家マムルーク朝軍隊モンゴル攻撃のために北方へ向かう際に7キリスト教国家領域通過することを認めた。この休戦結果マムルーク軍はほど近いアッコ宿営、再補給許され1260年9月3日、ついにアイン・ジャールートでモンゴル軍交戦したモンゴル軍はその主力フレグとともに撤退していたため既に消耗している状態であり、十字軍国家受動的な支援によって、マムルーク軍はモンゴル対す決定的かつ歴史的な勝利を成し遂げることができた。戦い敗れたモンゴル軍残党は、ヘトゥム1世によって受け入れられ再編成されて、キリキア・アルメニア王国編入された。モンゴル側から見ると局地戦かつ小規模な軍での戦闘であったとはいえ彼らが外敵負けた初めての戦いであったため (厳密にホラズムシャー朝ジャラールッディーン軍団モンゴルシギ・クトク率いる3万騎撃ち破ったアフガニスタンパルワーンの戦いがあり、「初めて」ではない) 、モンゴルの歴史大きなターニングポイントとなり、モンゴル帝国止められない思われ拡大に西の境界設定することとなった

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