ミュリオケファロンの戦いとは? わかりやすく解説

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ミュリオケファロンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 13:26 UTC 版)

ミュリオケファロンの戦い(ミュリオケファロンのたたかい、ギリシア語: Μάχη του Μυριοκέφαλου トルコ語: Miryakefalon Savaşı)は、1176年9月17日アナトリア中部のミュリオケファロン(Myriokephalon)で、コムネノス王朝東ローマ帝国ルーム・セルジューク朝との間で戦われた戦闘であり、ルーム・セルジューク朝が勝利をおさめた。これによりコムネノス王朝東ローマ帝国の衰退が決定的になり、その威信も著しく失墜した。


  1. ^ Treadgold1997, p. 635.
  2. ^ Haldon 2001, p. 198.
  3. ^ ハンガリー王国のベーラ3世と婚約していたマヌエル1世の娘マリアに対し、シチリア王国グリエルモ2世が帝位継承を条件に結婚を持ちかける。イタリアでの影響強化を狙うマヌエル1世はマリアの婚約を破棄させてグリエルモ2世と婚約させるが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が自らの息子のハインリヒとマリアとの結婚を提案した。天秤にかけたマヌエル1世はドイツ皇帝を選択し、グリエルモ2世との結婚を中止させたが、それを見届けたフリードリヒ1世は態度を急変し、婚姻の合意を破棄した。結局、シチリアは前述のハインリヒがシチリア王国の後継者コスタンツァと結婚して継承することになり、ハンガリー王国はマヌエル1世の死後、東ローマ帝国へ反旗を翻す。
  4. ^ a b c 尚樹(1999:604)
  5. ^ 尚樹(1999:605)
  6. ^ 尚樹(1999:608)


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