ニカイア攻囲戦
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ニカイア攻囲戦(ニカイアこういせん、英: Siege of Nicaea)は、第1回十字軍の主要な戦闘の一つ。1097年5月14日から6月19日にかけてルーム・セルジューク朝の首都ニカイアを十字軍および東ローマ帝国軍が包囲した。ニカイアは十字軍ではなく東ローマの方に降伏した。
- ^ Nicolle, The First Crusade 1096-1099: Conquest of the Holy Land,32ページ 「最終的に、ニカイア市外の十字軍の軍勢は、4,200人から4,500人の騎兵、30,000人の歩兵、その他の非戦闘員という数になった。」
- ^ Crusades: The Illustrated History, by Thomas F Madden
- ^ Pryor, Logistics of Warfare in the Age of the Crusades, pp. 49-50 「加えて、攻撃側は何度も城壁を攻撃し、その多くは弓騎兵からなるクルチ・アルスラーン1世の救援部隊の10,000人ほどを激戦の末破った。」
- 1 ニカイア攻囲戦とは
- 2 ニカイア攻囲戦の概要
- 3 東ローマ帝国軍の到着とニカイアの降伏
- 4 その後
ニカイア攻囲戦
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詳細は「ニカイア攻囲戦」を参照 アレクシオスからアナトリアを案内する部隊を提供され、十字軍将兵はボスポラス海峡を渡り、最初の目標としていた都市ニカイアにたどりついた。ニカイアはかつてはビザンツ帝国の都市で、住民の多くはビザンツ人であったが、ルーム・セルジュークが征服、その首都となっていた。十字軍はニカイアを攻囲し、力攻めを避け、水源を封鎖して兵糧攻めを行うことにした。クルチ・アルスラーン1世はアナトリア高原のマラティヤ(メリテネ)で、当地のセルジューク系ダニシュメンド朝の王、賢者ダニシュメンド(Danishmend Gazi)と戦っていたが、重武装の大軍が首都を包囲していると聞き、あわてて引き返し戦うものの、多大な損害を出したため、城内に立て篭もるビザンツ人住民やテュルク人守備隊に東ローマ帝国への降伏を薦め、内陸深くのコンヤ(イコニウム)への退却を決めた。この状況を伝え聞いたアレクシオス1世は、十字軍がニカイアを陥落させた場合は略奪を行うに違いないと考え、ひそかに使者を派遣してニカイアの指導者に降伏するよう交渉を行った。守備隊は説得され、住民らは夜ひそかに東ローマ兵を城に入れた。 1097年6月19日の朝、街を囲んでいた十字軍将兵は目覚めて仰天した。城壁に東ローマ帝国の旗がひるがえっていたからである。この出来事は、十字軍と東ローマ帝国の関係に修復できない亀裂をもたらした。互いの不信感が決定的になったのである。十字軍はニカイアを離れ、一路エルサレムを目指した。東ローマ帝国軍は十字軍の道案内をしながら、アナトリアの西半分の領土を、分立するセルジューク系諸侯国から回復していった。一方、クルチ・アルスラーン1世はコンヤで軍勢を立て直し、セルジューク系諸侯に救援を呼びかけたが救援は無かった。
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