コムネノス王朝
コムネノス王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/12 06:52 UTC 版)
詳細は「コムネノス王朝」を参照 コムネノス朝の時代、ビザンツ帝国は栄え安定した。アレクシオス1世は王宮をコンスタンティノープルのブラケルナエ(英語版)地区に移した。またアナトリアの大部分をセルジューク朝から奪還し、さらに第1回十字軍を呼び寄せて東方に十字軍国家を作らせることで、イスラーム圏に対する防壁を築いた。コムネノス朝は全体を通じて十字軍にたびたび介入し、アンティオキア公国やエルサレム王国と婚姻関係を結んだ。例えばマヌエル1世コムネノスの姪のテオドラ・コムネナ(英語版、ギリシア語版)はエルサレム王ボードゥアン3世(英語版)と、孫のマリア・コムネナ(英語版)はアモーリー1世と結婚した。 アレクシオス1世は37年にわたって在位し、息子のヨハネス2世コムネノスも姉のアンナ・コムネナの陰謀を乗り切り25年間在位した。その息子マヌエル1世も37年間在位した。 ビザンツ帝国の皇位継承にあたっては、血統よりも個人の力量が重視されたため、たびたび傍系の者が帝位についたことにより数多くの皇帝家がコムネノス家から派生した。マヌエル1世の後のコムネノス朝は以前の諸王朝と同様に、陰謀が飛び交い混乱していった。コムネノス朝で初めて未成年の内に登位したアレクシオス2世コムネノスは、わずか3年でアンドロニコス1世コムネノスに簒奪された。そのアンドロニコス1世も2年後にアンゲロス家のイサキオス2世アンゲロスに打倒され、イサキオス2世も弟のアレクシオス3世アンゲロスに退位させられ目を潰された。その後、イサキオス2世とその息子アレクシオス4世アンゲロスが第4回十字軍の支援を受けて権力を取り戻した(コンスタンティノープル包囲戦 (1203年))が、半年でドゥーカス家を名乗るアレクシオス5世ドゥーカスに殺された。そしてこの皇帝の時代、1204年にビザンツ帝国は再び第4回十字軍の攻撃を受け、一時滅亡した。(コンスタンティノープル包囲戦 (1204年))。
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