タラス河畔の戦い
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タラス河畔の戦い(タラスかはんのたたかい、アラビア語: معركة نهر طلاس、中国語: 怛羅斯會戰)は、751年(A.H.133年、天宝10載)5月から9月にかけて、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス)で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って行われた天下分け目の戦闘である。製紙法が技術的に出遅れていた西方に伝来したきっかけとなった戦いとして有名である。
- 1 タラス河畔の戦いとは
- 2 タラス河畔の戦いの概要
- 3 経過
- 4 参考文献
- 5 関連項目
タラス河畔の戦い
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751年、キルギスのタラス近郊で、唐の安西四鎮節度使であった高仙芝とイスラム帝国軍との間でタラス河畔の戦いが起こっている。この戦いは、高仙芝が石国(シャーシュ)を攻略したことに始まった。石国王の王子や「諸胡」と称される勢力がアッバース朝のホラサーン総督アブー・ムスリムに派兵を求め、後者はズィヤード・イブン=サーリフ(アラビア語版、中国語版)(アラビア語: زياد ابن صالح、英語: Ziyad ibn Salih)を将として一軍を送った。両軍はともに数万の大軍勢で戦ったが、テュルク系の一部族で唐に来朝していたカルルク(葛邏禄)が唐を裏切ってアッバース軍に寝返り、唐軍は大敗した。 これにより、唐が西域から後退し、このとき捕虜となった中国人が紙の製法を西方に伝える契機となった。
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タラス河畔の戦い
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天宝4載(745年)、河西節度使夫蒙霊詧は段秀実を別将(統領官)に任命する、彼に付いて護蜜国(トハラの東で現在のアフガニスタンカーブルの北東)の征伐に於いては戦攻を建て、安西大都護府の別将に封ぜられる。 天宝7載(748年)、高仙芝は夫蒙霊詧に代わって安西副都護となる、段秀実は高仙芝に付き従うようになる。 天宝10載(751年)、高仙芝は挙兵しタラスを包囲、黒衣大食(アッバース朝)の援軍が来ると、高仙芝の軍隊は敗れ(タラス河畔の戦い)、軍隊の士気も下がってしまった。夜に段秀実は副将の李嗣業の声が耳に入る、段秀実は大声で彼を糾弾して言った「敵を恐れて逃跑するは勇に非ず。己を庇い皆を貶めるは仁に非ず。軍敗れて逃責しようとするのは男じゃない」。李嗣業はこれを聞いたのち非常に慚愧した、後に段秀実とともに戦敗した部隊の回収をはじめ、部隊を整理し軍隊が安西へ帰った後、李嗣業と高仙芝は、段秀実を判官にとの意思を表明し、高仙芝は段秀実を隴州大堆府の果毅(隋唐の武官、府兵を統べる官僚)に任命した。 天宝12載(753年)、封常清が高仙芝に代わって安西副都護となる、段秀実は封常清に付いて大勃律を攻める、賀薩労城に進軍し、一戦にして勝利する。封常清は逃亡した敵を追い討ちしようと考えたが、段秀実は彼に進めて言った「もし弱り果てた敵人を打っても、この敵人は我軍を惑わし狡猾な手を使うでしょう、どうか部隊を山林に搜索させるようお命じ下さい」。見当はあたり山林に隠れている部隊を発見する、段秀実は戦功により綏徳府の折衝都尉(高級武官)に任命された。
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