サルフの戦いとは? わかりやすく解説

サルフの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/25 14:45 UTC 版)

サルフの戦い(サルフのたたかい、薩爾滸之戰、簡体字: 萨尔浒之战)は、1619年ヌルハチが率いる後金(のちの)が朝鮮後金討伐軍を破った戦い。大小の火器を動員し全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(sarhū、薩爾滸、簡体字: 萨尔浒)で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。兵力・装備では圧倒的に優っていたにもかかわらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者を出す大敗北を喫した。


  1. ^ 稻葉君山; 但燾(譯). 《清朝全史(上下)》. p95, 中國社會科學出版社. 2008. ISBN 9787500472087.
  2. ^ 台灣三軍大學編. 《中國歷代戰爭史 第16冊 清(上)》. p80, 中信出版社. 2013. ISBN 9787508637112.
  3. ^ 女直は女真(ジュシェン、ジュルチン)の明代における呼称。女直諸部のうちヌルハチが属した建州女直諸部は女直の間では「マンジュ(満洲)」と呼ばれており、ヌルハチが女直の統一を進める過程で、その支配下に組み込まれた全ての女直人は満洲人と呼ばれるようになる。
  4. ^ 賜号のダルハン・ヒヤ(Darhan Hiya達爾漢侍衛)の名前でも知られ、「侍衛/総官」の意味である。


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サルフの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:15 UTC 版)

劉テイ (明)」の記事における「サルフの戦い」の解説

後金との戦い起きると、万暦46年1618年)に遼東総兵官に再起用された。万暦47年1619年)、サルフの戦いでは朝鮮からの援軍を含む東南路軍を指揮してヌルハチ本拠地ヘトゥアラ赫図阿拉興京)を包囲する一角として北上した。しかし、馬の北路軍と杜松西路軍が各個撃破されてしまい、全軍指揮する楊鎬は残る李如柏の南路軍と劉綎東南軍に退却命じたが、既に敵地深く進攻していた東南軍には届かず3月4日ヌルハチ次男ダイジャンの軍とアブダリで遭遇し、別働のホンタイジやダルハン・ヒヤによる三面包囲受けて東南路軍は壊滅し劉綎戦死した享年62。なお、少し遅れていた姜弘立朝鮮軍は、攻撃孤立した後に後金軍に降伏した。清が天下統一すると、劉綎は忠壮と諡された。

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サルフの戦い(1619年)

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明清交替」の記事における「サルフの戦い(1619年)」の解説

国・勢指導者状況目的後金 ヌルハチダイシャンホンタイジ等 明攻撃防衛勝利杜松、馬劉綎後金攻撃後金首都ヘトゥアラ進軍敗北 イェヘ 金台明に協力敗北 朝鮮王朝 姜弘立 明に協力敗北 ヌルハチ時代重要な戦闘にサルフの戦いがある。撫順陥落知った明政府は衝撃を受け、ヌルハチに対して大軍派遣した装備と数で勝る明軍ヌルハチ居城ヘトゥアラ進軍しヌルハチ野戦打って出た後金軍は4路に分かれていた明軍1つずつ攻撃し5日間の激戦明軍破ったイェヘ支族は、金台石(英語版)のもとで明軍協力したが、金台石はサルフの戦いで敗れて1619年死去した日本海沿岸住み毛皮をとって生活していた野人女真ワルカ(瓦爾喀)の人々も、1599年から1641年まで支配された。 ヌルハチはサルフに居城築いたあと、遼東平野進出する1621年の夏までに、遼東半島にある明の要塞都市である瀋陽遼陽は、明内部の裏切りや離反起きて後金の手渡ったヌルハチ瀋陽後金首都として宮殿建設して瀋陽はムクデン・ホトン(mukden hoton盛京)と呼ばれた後金占領政策 後金新たに支配した地域漢人社会であり、ヌルハチ漢人武臣商人遊撃と都司の職を与えて行政任せた税制では、銀で納税する明の一条鞭法代わり満洲人習慣である現物納税命じた役人監視のもとで市場開き満洲人漢人圧迫しないよう公定価格定めて八旗兵士には物資購入用に銀を持たせて強奪防ごうとした。工業面では陶工などの職人奨励し武器職人集団化して製品買い取った満洲人遼東への移住始め後金漢人土地没収し満洲人渡し満洲人八旗として与えられ土地旗地)を運営した漢人には辮髪風習義務づけて満洲人とともに居住させたため、満洲人漢人の間でトラブル起き後金はときに漢人弾圧行った満洲人明全土を征服するには少なすぎたが、モンゴル人取り込んで蒙古八旗創設した。さらに満洲人は捕えたり投降した漢兵を取り込むために漢軍八旗創設して、満洲人による本来の八旗満洲八旗呼んだ漢人ニカン)旗は黒色の旗を用いヌルハチ八旗以外の漢人兵にも守られていた。1618年から1631年まで満洲人漢人亡命者受け入れその子孫漢軍八旗となり、戦死者追悼された。

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