その後の戦闘とは? わかりやすく解説

その後の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:25 UTC 版)

ヘンダーソン基地艦砲射撃」の記事における「その後の戦闘」の解説

詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照 10月13日21時、第八艦隊長官三川中将重巡鳥海サボ島沖海戦から生還した重巡衣笠駆逐艦天霧望月率いてショートランド泊地から出撃輸送船団護衛しつつガダルカナル島接近した14日深夜鳥海衣笠飛行場対し20cm砲弾752発を発射した10月14日増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官指揮下のもと、軽巡3隻(川内由良龍田)と駆逐艦4隻(朝雲白雪、暁、)がそれぞれガダルカナル島への揚陸成功した翌日秋月村雨五月雨夕立春雨時雨白露有明等の護衛による輸送船団6隻は、ヘンダーソン飛行場から飛び立ったアメリカ軍機の空襲輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)が座礁するかろうじて輸送任務成功したが、日中アメリカ軍艦砲射撃ヘンダーソン飛行場からのアメリカ軍機の空襲により、揚陸地点集積されていた物資大部分焼き払われた。 10月15日夜、第五戦隊重巡洋艦妙高摩耶第二水雷戦隊軽巡五十鈴第三十一駆逐隊高波巻波長波》、第二十四駆逐隊海風江風涼風》)がガダルカナル島ヘンダーソン基地への艦砲射撃実施し妙高は20cm主砲463発、摩耶450発を発射した10月16日連合艦隊水上機母艦日進千歳千代田による輸送止め軽巡洋艦および駆逐艦での輸送下令日本陸軍ガ島総攻撃前の最後輸送作戦とした。これを受けて軽巡洋艦戦隊川内由良龍田)と第四水雷戦隊旗艦秋月)、同水雷戦隊第1小隊第九駆逐隊朝雲》、第十駆逐隊白雪》、第六駆逐隊《暁、》)、第2小隊第二駆逐隊村雨夕立春雨五月雨》)、第3小隊第十駆逐隊浦波敷波綾波》)、第4小隊第二十七駆逐隊時雨白露有明》)による輸送作戦陸兵2159名、野砲6門、速射砲12門、軍需物資が行われることになった17日午前2時-4時各隊漸次ショートランド泊地出撃すると、2040分から22時にかけてガダルカナル島到着し軽巡戦隊エスペランス岬で、水雷戦隊タサファロンガ岬それぞれ揚陸成功したまた、サボ島沖海戦沈没した駆逐艦吹雪乗組員8名を含む231名を救助した各隊揚陸を行う間、村雨時雨揚陸作戦中の哨戒担当したのちヘンダーソン飛行場に、時雨100発、村雨60発を艦砲射撃した。帰途軽巡由良アメリカ潜水艦雷撃により魚雷1本が命中する不発で、増援部隊それ以上被害を出すことなく10月18日9時30分にショートランド泊地帰着した

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その後の戦闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 22:02 UTC 版)

アイタペの戦い」の記事における「その後の戦闘」の解説

アイタペの戦い後、アメリカ軍交代したオーストラリア軍は、オーストラリア第6師団主力として追撃戦行った第6師団隷下の第19旅団ジャングル戦闘の専門訓練受けていた。日本軍大規模な反撃を行う戦力残っておらず、アレキサンダー山脈後退しつつ、小部隊による夜襲反復して応戦した安達中将飢餓による全滅避けるためウェワク残留部隊一部セピック川流域地域分散させた。1945年5月にはオーストラリア軍ウェワク侵入日本軍内陸部へと追い込んだ内陸部分散した日本軍将兵飢餓苦しみ日本兵日本兵現地人襲って食べ人肉食事件発生したと言われる。第41師団1944年11月18日に「人肉(敵のそれは除外する)を人肉知りつつ食したる者は人間犯す罪のなかでは最悪のものに当たることから死刑処す」という命令書を出したことが確認されている。過酷な環境に耐えかねて日本軍としては珍しい集投降をする部隊発生した(竹永隊の降伏)。ウェワク地区での状況ドキュメンタリー映画の『ゆきゆきて、神軍』にいくつかの証言記録されている。 オーストラリア軍追撃戦終戦まで続いた食糧不足病気により日本軍将兵次々と死亡し終戦頃の第18軍所属将兵生存者は、第20師団が約1700人、第41師団1200人、第51師団は4300人、その他を合計して約13000人だった。追撃戦におけるオーストラリア軍損害死傷1600人に上り戦略的に無意味な損害生じさせたとして士気低下招いた第18軍主力食料弾薬1945年9月までには尽き果てる予想され8月10日全員玉砕決意送信した後に無線機破壊していたが、玉砕前に終戦となった9月13日東部ニューギニア日本軍オーストラリア軍に対して降伏し武装解除の後ウェワク沖合いムッシュ島に収容された。収容され陸海軍将兵人数諸説あるが第一復員資料課は1万1,731名と記録している。日本政府ニューギニア惨状配慮し復員船優先的に送ったとされるムッシュ島には11月末に第一次復員船鹿島」が到着し将兵順次日本へ帰国した。この間にもムッシュ島では、祖国へ帰る日を待ちわびながら多く日本兵衰弱し息を引き取った1946年1月末に最後復員船鳳翔」がウェワク出航し復員完了した安達中将ウェワクからの復員見届けた後、戦犯容疑によってラバウル送られBC級戦犯として無期懲役の刑で服役中1947年9月10日部下将兵に“人として堪へ得る限度遥かに超越せる克難敢闘要求”したことへの謝罪述べた遺書したためた後に自決した

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