その後の戦い
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もう1つの戦場であった飯盛山城は三人衆の1人三好長逸の誘降戦術が功を奏して同年10月21日に開城、久秀に寝返った者は堺へ去っていった。 この戦いで勝利した松永・三好連合軍は大和での実権が大きくなっていたと思われている。『東大寺雑集録』によると、各寺院に対して「金銀米銭」による矢銭を要求しており三人衆・池田・筒井連合軍が去った後、東大寺、興福寺に代わって松永・三好連合軍が布陣しており、寺方より引き揚げを要望したところ、要求が聞き入れられることは無かった。これらにより久秀の権威が回復したと思われている。 その後三人衆・筒井連合軍の小規模な戦いは断続的に続いており、戦局が変化したのが翌永禄11年(1568年)6月29日、信貴山城の戦いで信貴山城が落城すると、同年9月2日、山城木津城にいた三好政康が3千兵で西ノ京辺りに布陣した。翌9月3日多聞山城の北西の宿場を焼き、筒井軍も合流して多聞山城の東側より攻めた。その後一旦大豆山に陣取った。 再び窮地に陥った久秀であったが織田信長により状況が変化する。信長は9月12日に三人衆に就いた六角義賢を観音寺城の戦いで撃破し、足利義輝の弟・足利義昭を第15代将軍に擁立して上洛を果たすことになる(足利義栄は阿波で死去)。畿内制圧に動いていた信長に久秀は質子を入れ9月27日に芥川山城で息子の松永久通、三好義継と共に拝謁し、10月4日に再び信長に拝謁すると「吉光」と「九十九髪茄子」を差出、恭順の意を示し軍門に下ることになり、義継には河内上守護に、松永父子には大和を任されることとなった。 信長は細川藤孝、佐久間信盛、和田惟政ら2万兵の援軍をつけ、久秀は再び大和に帰国し攻勢に出た。10月8日に奪回した筒井城が再び落城し、ついで10月10日に筒井方であった森屋城と窪之庄城が、10月15日に豊田城が落城すると大和は再び久秀の手に戻った。三人衆も畿内の諸城を落とされ、三人衆の勢力は一旦畿内から放逐された。
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