その後の戦いとは? わかりやすく解説

その後の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:41 UTC 版)

東大寺大仏殿の戦い」の記事における「その後の戦い」の解説

もう1つ戦場であった飯盛山城三人衆1人三好長逸の誘降戦術功を奏して同年10月21日開城、久秀に寝返った者は堺へ去っていった。 この戦いで勝利した松永三好連合軍大和での実権大きくなっていたと思われている。『東大寺雑集録』によると、各寺院に対して金銀米銭」による矢銭要求しており三人衆池田筒井連合軍去った後、東大寺興福寺に代わって松永三好連合軍布陣しており、寺方より引き揚げ要望したところ、要求聞き入れられることは無かった。これらにより久秀の権威回復した思われている。 その後三人衆筒井連合軍小規模な戦い断続的に続いており、戦局変化したのが翌永禄11年1568年6月29日信貴山城の戦い信貴山城落城すると、同年9月2日山城木津城にいた三好政康が3千兵で西ノ京辺り布陣した。翌9月3日多聞山城北西宿場焼き筒井軍も合流して多聞山城東側より攻めたその後一旦大豆山に陣取った。 再び窮地陥った秀であったが織田信長により状況変化する信長9月12日三人衆就いた六角義賢観音寺城の戦い撃破し足利義輝の弟・足利義昭第15代将軍擁立して上洛を果たすことになる(足利義栄阿波死去)。畿内制圧動いていた信長に久秀は質子を入れ9月27日芥川山城息子松永久通三好義継と共に拝謁し10月4日に再び信長拝謁すると「吉光」と「九十九髪茄子」を差出恭順の意を示し軍門に下ることになり、義継には河内守護に、松永父子には大和任されることとなった信長細川藤孝佐久間信盛和田惟政ら2兵の援軍をつけ、久秀は再び大和帰国し攻勢出た10月8日奪回した筒井城が再び落城し、ついで10月10日筒井であった森屋城と窪之庄城が、10月15日豊田城落城すると大和は再び久秀の手戻った三人衆畿内諸城落とされ三人衆勢力は一旦畿内から放逐された。

※この「その後の戦い」の解説は、「東大寺大仏殿の戦い」の解説の一部です。
「その後の戦い」を含む「東大寺大仏殿の戦い」の記事については、「東大寺大仏殿の戦い」の概要を参照ください。

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