1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー 1992年のパリ-モスクワ-北京ラリーの概要

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 1992年のパリ-モスクワ-北京ラリーの解説 > 1992年のパリ-モスクワ-北京ラリーの概要 

1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/03 07:54 UTC 版)

概要

1907年北京-パリのルート

1907年、フランスのル・マタン紙 (Le Matinの呼びかけにより、ユーラシア大陸を東の北京から西のパリまで16,000km横断する壮大な自動車レース「北京-パリ (Peking to Paris」が開催された。参加5台中4台が完走し、優勝者のシッピオーネ・ボルゲーゼ公爵 (Scipione Borgheseらが乗るイターラ (Italaはスタートから2カ月後にパリに到着した[2]。その後は2度の世界大戦民族紛争東西冷戦によって冒険の再現は困難になってしまったが、1980年代になると米ソ緊張緩和と中国の改革開放政策に加えて、パリ-ダカールラリー(パリダカ)の成功もあり、北京-パリを復活させようとする機運が高まった[3]。パリダカの創始者であるティエリー・サビーヌも「次の夢」と語っていた[4]

パリ-モスクワ-北京ラリーの実現にこぎつけたのは、日本の三菱商事であった。1986年の新経営方針「K-PLAN」の一環として発足した首都圏事業部が立案し、自動車事業本部へと企画が持ち込まれた[5]。三菱商事にはパリダカで活躍していた三菱自動車工業のようなモータースポーツの実績はなかったが、大手総合商社ならではの海外ネットワークを活用した。1989年12月には運営母体としてフランスに子会社「MAPS」を設立し[6]、国際自動車スポーツ連盟 (FISA) やフランスモータースポーツ連盟 (FFSA) 、ソ連国家体育スポーツ委員会、中国モータースポーツ協会と交渉しながら、競技公認や通行許可、安全確保、物資補給などの課題を煮詰めていった。また、パリダカ四輪部門3勝を達成したルネ・メッジ (René Metgeをコースディレクターとして招聘し[7]、現地試走を重ねてルートを選定した。

このプロジェクトの準備期間には1989年6月の天安門事件、1989年11月のベルリンの壁崩壊、1989年12月の冷戦終結宣言(マルタ会談)、1990年10月の東西ドイツ統一、1991年1月の湾岸戦争といった世界情勢を変える出来事が続いた。本来ラリーは1991年9月1日にパリを出発する予定だったが、2週間前の8月19日にソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が保守派によって軟禁される政変劇(8月クーデター)が発生したため、8月28日にMAPSが開催延期を表明した[8]。3カ月後の1991年12月にはソ連が崩壊し独立国家共同体 (CIS) へ移行。計画当初は7カ国[9]を通過する予定だったルートが、1992年9月に改めてラリーが決行された時には11カ国[10]を通過するかたちに変わっていた。

1年延期のトラブルに加え、テレビ放映権収入の見込みも外れて興行的には失敗に終わり、三菱商事はこの1回のみで撤退した[11]。第2回大会は1995年8月5日から26日にかけて「マスターラリー パリ-モスクワ-ウランバートル-北京」として開催された[12]。総合優勝は、三菱パジェロに乗るジャン=ピーエル・フォントネフランス語版であった。

日程・ルート

総距離は16,082km[13]。地球一周(赤道の全周長)40,075kmの約40%にあたる距離を27日間で走破した。行程は9月1日から4日までがパリ-モスクワの移動区間(リエゾン)、9月5日から16日までがCIS域内の前半戦、9月17日から27日までが中国国内の後半戦というパートに分かれる。

1992年8月30日にパリ近郊のアランソンでプロローグ[14]1回目を行い、9月1日にパリ市内のエッフェル塔の向かいにあるトロカデロ広場を出発。パリ-モスクワ間3,000kmのリエゾンは、一般車両に交じってベルギーのブリュッセル、ドイツのベルリン、ポーランドのワルシャワ、ベラルーシのミンスクを通過。途中、ワルシャワでプロローグ2回目を行い、1回目との合計タイムでSS1のスタート順を決めた。モスクワの赤の広場で催されたセレモニーには20万人の群衆が詰めかけ、花火が打ち上がるお祭りムードの中で本格的な競技がスタートした。

CISルートは先ずロシア国内の黒土穀倉地帯を東進し、ヴォルガ川を渡り、東ヨーロッパから中央アジアへ。カザフスタン領内では広大なカザフステップからカスピ海東岸へと南下。トルクメニスタン領内では気温40度以上のカラクム砂漠を横断する。ウズベキスタン領内を経て、9月16日にキルギスタンの首都ビシュケクで休息日を迎え、ここで中国への入国手続きを済ませる。9月17日は天山山脈越えのリエゾン区間となり、標高3,750mのトルガルト峠にある国境の通関から中国領内へ入る。

中国ルートは新疆ウイグル自治区に始まり、天山山脈南麗のシルクロードの天山南路(西域北道)のオアシス都市に沿って東進する。9月18日のカシュガル-アクスは、タクラマカン砂漠では珍しい大雨によりスタックする車両が続出し、走行が途中で打ち切られた。甘粛省寧夏回族自治区内モンゴル自治区にかけては万里の長城の北よりゴビ砂漠モンゴル高原を通過。9月26日に行われるフフホト-バーターリンのSSを終えた時点で最終順位が確定した。最終日9月27日は車列を組んで北京市までビクトリーランを行い、天安門広場前を通って市内のチャイナ・ワールド・ホテル (China World Hotel, Beijingで到着式典を行った。

日時 行事 地名 走行距離(SS距離)[15]
8月30日 プロローグ1 アランソン (Alençon)
9月1日 スタートセレモニー パリ・トロカデロ広場 (Paris,Trocadéro)
9月1日 - 2日 リエゾン1 パリ (Paris) - ワルシャワ (POL) 1,616 km
9月3日 プロローグ2 ワルシャワ (Warsaw)
9月3日 - 4日 リエゾン2 ワルシャワ (Warsaw) - モスクワ (Moscow) 1,295 km
9月4日 スタートセレモニー モスクワ・赤の広場 (Moscow,Red Square)
9月5日 STAGE 1 モスクワ (Moscow) - タンボフ (Tambov) 600 km (131 km)
9月6日 STAGE 2 タンボフ (Tambov) - サラトフ (Saratov) 609 km (168 km)
9月7日 STAGE 3 サラトフ (Saratov) - ウラリスク (Ural'sk) 610 km (423 km)
9月8日 STAGE 4 ウラリスク (Ural'sk) - ケンキャック (Kenkiyak) 697 km (542 km)
9月9日 STAGE 5 ケンキャック (Kenkiyak) - ベイニュウ (Beyneu) 476 km (476 km)
9月10日 STAGE 6 ベイニュウ (Beyneu) - ノヴィウセン (Novy Uzen) 383 km (383 km)
9月11日 STAGE 7 ノヴィウセン (Novy Uzen) - ネビトダグ (Nebit Dag) 738 km (670 km)
9月12日 STAGE 8 ネビトダグ (Nebit Dag) - ダルヴァザ (Darvaza) 562 km (494 km)
9月13日 STAGE 9 ダルヴァザ (Darvaza) - ブハラ (Bukhara) 686 km (485 km)
9月14日 STAGE 10 ブハラ (Bukhara) - シムケント (Chimkent) 726 km (397 km)
9月15日 STAGE 11 シムケント (Chimkent) - ビシュケク (Bishkek) 756 km (456 km)
9月16日 休息日 ビシュケク (Bishkek)
9月17日 リエゾン3 ビシュケク (Bishkek) - カシュガル(喀什噶尔) 686 km
9月18日 STAGE 12 カシュガル(喀什噶尔) - アクス(阿克苏) 539 km (296 km)
9月19日 STAGE 13 アクス(阿克苏) - コルラ(库尔勒) 705 km (160 km)
9月20日 STAGE 14 コルラ(库尔勒) - シャンシャン(鄯善) 661 km (395 km)
9月21日 STAGE 15 シャンシャン(鄯善) - ハミ(哈密) 418 km (317 km)
9月22日 STAGE 16 ハミ(哈密) - ジャーユイクァン(嘉峪関) 757 km (545 km)
9月23日 STAGE 17 ジャーユイクァン(嘉峪関) - ウーウェイ(武威) 521 km (203 km)
9月24日 STAGE 18 ウーウェイ(武威) - インチュアン(銀川) 640 km (360 km)
9月25日 STAGE 19 インチュアン(銀川) - フフホト(呼和浩特) 725 km (414 km)
9月26日 STAGE 20 フフホト(呼和浩特) - バーターリン(八達嶺) 606 km (040 km)
9月27日 ビクトリーラン バーターリン(八達嶺) - ペキン(北京) 070 km
参考地図[16] 16,082 km (7,355 km)

  1. ^ 『幻のラリー 復活への1000日』、74頁。
  2. ^ 『幻のラリー 復活への1000日』、16頁。
  3. ^ 「読売新聞」1992年9月1日朝刊14面、読売新聞社。
  4. ^ 『幻のラリー 復活への1000日』、22頁。
  5. ^ 『幻のラリー 復活への1000日』、25・29頁。
  6. ^ 『幻のラリー 復活への1000日』、60頁。
  7. ^ “Paris-Moscow-Peking Rally: Metge's vision becomes a rally - Jeremy Hart reports from Paris on the daunting task facing drivers in a race inspired by an Italian aristocrat”. INDEPENDENT. (1992年8月31日). https://www.independent.co.uk/sport/paris-moscow-peking-rally-metges-vision-becomes-a-rally-jeremy-hart-reports-from-paris-on-the-1548712.html 2018年3月15日閲覧。 
  8. ^ 『幻のラリー 復活への1000日』、214頁。
  9. ^ フランス、ベルギー西ドイツ東ドイツポーランド、ソ連、中国。
  10. ^ フランス、ベルギー、ドイツポーランドベラルーシロシアカザフスタントルクメニスタンウズベキスタンキルギスタン、中国。
  11. ^ 企業法務シンポジウム” (PDF). 専門職大学院. 文部科学省. p. 25 (2010-05 -30). 2018年3月21日閲覧。
  12. ^ ラリーアートジャーナル No.62”. ラリーアート. p. 3 (1995年11月1日). 2018年3月21日閲覧。
  13. ^ a b c カーグラフィック 1992年12月号』、333頁。
  14. ^ 参加車両が1台ずつタイムアタックを行い、SS1の出走順を決める予選会。
  15. ^ Racing On No.131 1992年11月15日号』、ニューズ出版、1992年、p. 158。
  16. ^ ラリーアートジャーナル No.44 - ウェイバックマシン(2013年10月24日アーカイブ分)
  17. ^ a b 『カーグラフィック』1992年11月号、二玄社、1992年、302頁。
  18. ^ 第7回 シトロエン-アールト中央アジア探検隊出発!”. そうだったのか!『ナショナル ジオグラフィック』. 日経ナショナル ジオグラフィック社 (2012年3月13日). 2018年3月22日閲覧。
  19. ^ 「朝日新聞」1992年9月2日朝刊11面、朝日新聞社。
  20. ^ 『78歳ラリードライバー : ギネス・ホルダー菅原義正の挑戦』(2019年12月/新紀元社)P151〜154
  21. ^ YAMAHA MOTOR NEW 1992 No.6 page.4” (PDF). デジタルライブラリー. ヤマハ発動機. 2018年3月19日閲覧。
  22. ^ 林哲司 / パリ・モスクワ・北京〜夢追人たちのメロディ [廃盤]”. CD Journal. 音楽出版社. 2018年3月21日閲覧。
  23. ^ 彼方へ… 杏子”. ORICON NEWS. oricon ME. 2018年3月21日閲覧。
  24. ^ Kyoko / 彼方へ… [廃盤]”. CDジャーナル. 音楽出版社. 2022年10月16日閲覧。
  25. ^ 『幻のラリー 復活への1000日』、203頁。
  26. ^ ザ・キング・オブ・ラリー パリ〜モスクワ〜ペキン”. ファミ通.com. 2018年3月21日閲覧。


「1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー」の関連用語

1992年のパリ-モスクワ-北京ラリーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1992年のパリ-モスクワ-北京ラリーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS