山本勘助 実在を巡る議論

山本勘助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/25 00:54 UTC 版)

実在を巡る議論

江戸時代・甲陽軍鑑登場以後

歌川国芳

山本勘助を軍略と築城に長けた武将として描いた初出の史料は、江戸時代初期の17世紀初頭に成立したと考えられる『甲陽軍鑑』であり、その後もその印象が江戸時代の講談に引き継がれて、さまざまに脚色されて天才肌の「軍師山本勘助」像が形成された。江戸時代には『甲陽軍鑑』は軍学の聖典と尊重されて広く読まれ、山本勘助という名軍師の存在も広く知れ渡ることになる。

しかし、元禄年間作成の松浦鎮信(天祥)の『武功雑記』によると、山本勘助の子供が学のある僧で、わが親の山本勘助の話を創作し、高坂弾正の作と偽って甲陽軍鑑と名付けた作り物と断じるなど、早くから世上に流布された名軍師としての存在を疑われることがあった。ここでは、山本勘助という人物の存在は認めながらも、甲陽軍鑑は偽作であり、軍鑑にあるような信玄の軍師ではなく、山県の家臣であると論じている。

明治時代の評価

明治になって近代的な実証主義に基づいた歴史学日本にも取り入れられ、『太平記』や『太閤記』といった古典的な軍記物語に対する史料批判が行われ、その史料性が否定されるようになった。明治24年(1891年)、東京帝国大学教授田中義成は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定、『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」は山県昌景配下の身分の低い一兵卒が元であろうとした。

田中は『甲陽軍鑑』は軍学者小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた創作物であるとし、『武功雑記』の記述を根拠として、『甲陽軍鑑』は勘助の子の関山派の僧侶の覚書を参考にして書かれ、この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例である)一兵卒に過ぎない勘助が武田家の軍師とされてしまったと断じた。ただし、田中は『甲陽軍鑑』の史料性は低く評価するものの、山本勘助の実在性に関しては疑っていない。

実証主義歴史学の大家である田中義成の見解は権威あるものとされ、田中の高弟渡辺世祐などもこれを支持して、以後は『甲陽軍鑑』を歴史学の論文の史料として用いることが憚られるような風潮となる。活動はおろか、名前自体がその他の史料での所見がない山本勘助の活動もまた史実とは考えられなくなり、戦後には1959年刊行の奥野高廣『武田信玄』において、勘助を架空の人物とした。

市河家文書の発見

昭和44年(1969年)10月、同年に放送されていた大河ドラマ天と地と』に触発された北海道釧路市在住の視聴者が、先祖伝来の古文書から戦国時代のものと思われる「山本菅助」の名が記された1通の書状を探し出し、北海道大学、信濃史料編纂室に鑑定に出したところ真物と確認された。これは信濃国高井郡の国衆で、戦国時代には武田家臣、近世には上杉家家臣となり、明治期に屯田兵として北海道へ渡った市河氏の子孫家に伝来した古文書群で、市河家文書と呼ばれる。現在は大半が所蔵家のもとを離れ本間美術館に所蔵されている。そのうち手元に残した一部が「釧路市河家文書」で、「山本菅助」文書はこの中に含まれる。現在は山梨県立博物館所蔵。この書状の発見によって、実在そのものが否定されかけていた山本勘助の存在に、新たな一石が投じられた。

市河家文書の発見を受けて、磯貝正義[7]、佐藤八郎[8]小林計一郎ら山梨・長野県の研究者による研究が相次ぎ、磯貝は市河家文書の発見を持って「山本菅助」の実在は立証されたとしつつも、『甲陽軍鑑』における信玄の軍師としての逸話や諱の「晴幸」に関しては疑問が持たれる点を指摘した。

小林は「山本菅助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一人物とし、さらにこの文書が第三次川中島合戦に際した弘治3年(1557年)の発給で、菅助は従来の見解による山県の家来ではなく、信玄側近として使者を務める地位の高い人物と評した[9]

一方、佐藤八郎は磯貝の見解を支持しつつも、「山本菅助」を「山本勘助」に結びつける点に関しては慎重視する見解を示した。

市河家文書以降の研究

市河家文書以降の山本勘助に関わる研究は多様なものが見られるが、勘助に関わる確実な記録・史料は『甲陽軍鑑』以外では市河家文書のみであるという状態が続いた。

山梨県の郷土史家・上野晴朗は『甲陽軍鑑』を肯定的に評価し、1985年には『山本勘助』を刊行し、山梨県北巨摩郡高根町上蔵原(現・北杜市高根町)に所在する伝・山本勘助の墓石・屋敷墓を紹介した。上野はこれらの墓石群を中世の五輪塔・宝篋印塔とし、付近には中世土豪の屋敷が所在し、『甲斐国志』に記される八ヶ岳南麓の山本勘助に関わる伝承の記述から、勘助は国信国境に近いこの地域に配置された家臣であるとした。また、1988年には渡辺勝正が『武田軍師山本勘助の謎』を刊行した。渡辺は『萩藩閥閲録』の『遺漏』(江戸後期の天保年間に成立)に収録されている、勘助の子孫を称する長門国三隅の山本家由緒書や武田氏関係文書を紹介し、勘助子孫が毛利家中に滞在し子孫を残したとした。ただし、渡辺の論は『萩藩閥閲録』・『遺漏』などの編纂史料や伝承に拠るもので一次史料に基づいていない点や、紹介している武田氏文書に関しては偽文書である可能性が指摘されている[10]

1990年代には小和田哲男が戦国時代における「軍師」の役割を検討し、軍師は合戦の吉凶を占う軍配者としての軍師と、主君に対して軍事上の助言を行う参謀として軍師の両面があることを指摘し、勘助は双方の役割を兼ねた「軍師」であったと指摘した[11]

1990年代後半から2000年代初頭にかけては『戦国遺文 武田氏編』や『山梨県史』の編纂が行われ、武田氏関係文書の徹底的な集成・調査が実施されたが、勘助に関する新出史料は発見されなかった。2006年からは丸島和洋が武田一族・家臣の名が多く記された高野山過去帳の紹介を行っているが、現在でも勘助に関わる名は発見されていない。一方、1990年代には国語学者の酒井憲二が『甲陽軍鑑』の国語学・書誌学的な再検討を行い、これが2000年代には歴史学方面にも波及して、甲陽軍鑑の史料性に関する再評価が提示された。

2007年には井上靖原作のNHK大河ドラマ『風林火山』が制作・放映され、前年から山本勘助に関する文献が多く出版された。

真下家所蔵文書の発見

2007年には柴辻俊六が「山本勘助の虚像と実像」『武田氏研究 第36号』を発表し、東大史料編纂所所蔵「古文書雑纂」における「高崎山本家文書」の調査記録に注目した。これは1892年(明治25年)に旧上野国高崎藩士・山本家当主が所蔵文書の鑑定を依頼した際の記録で、柴辻は文書自体は質の悪い写本であるとしつつも、「山本菅助」宛武田晴信書状については一定の信憑性があるものと評価した。

2008年には、群馬県安中市の安中市学習の森ふるさと学習館による同市に居住する真下家の所蔵古文書の調査において武田氏関係文書が発見された。同年には山梨県立博物館による資料調査が実施され、「山本菅助」とその関係者とみられる5点の新出文書が確認された。なお、真下家所蔵の古文書群は当初「真下家文書」と呼称されていたが、その後の調査で本来的には真下家に伝来したものではなく蒐集した古文書であることが判明したため、現在では「真下家所蔵文書」と呼称されている。

この5点の文書は「山本菅助」宛て文書が3通、「菅助」子孫の山本氏宛てと考えられている文書が2通で、『市河文書』以来の「山本菅助」関係文書として注目されているほか、山梨県立博物館の調査により「菅助」子孫の動向も判明した[12]

さらに、2009年11月には静岡県沼津市で「第二十四回国民文化祭・しずおか2009」の一環として開催されていた企画展「後北条氏と沼津」において出展されていた古文書の中に、2007年に柴辻が紹介していた「山本菅助」宛武田晴信書状と同一の写本が発見された。これにより文書の所蔵家から古文書・家譜類などの「沼津山本家文書」が発見され、高崎藩士であった「山本菅助」子孫が明治後に移住していたことが判明した。

真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見に伴い山本菅助の研究は加速し、特に沼津山本家文書の家譜類から初代「山本菅助」の法号が『甲陽軍鑑』における山本勘助の法号と同様の「道鬼」であることが確認された。近世初頭においては「山本菅助」子孫や武田遺臣、再仕官を願った大名家の間では、初代菅助は『甲陽軍鑑』における「山本勘助」と同一視されており、両者は同一人物であると指摘されるに至った[13]。また、真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見は近世初頭における武田遺臣である「菅助」子孫の再仕官に関する事情を豊富にもたらし、中世・近世移行期における大名家臣の動向に関する史料としても注目されている[14]

一方で、『甲陽軍鑑』における山本勘助の活躍や軍師としての役割などの点については解明されるに至らず、課題として残されている[15]

2010年(平成22年)には山梨県立博物館でシンボル展「実在した山本菅助」が開催され、研究成果が一般に公開された。同展ではシンポジウムも開催され、海老沼真治、丸島和洋、柴裕之、平山優らによる諸論考が発表された。なお、2013年には同シンポジウムの成果やその後の調査などが山梨県立博物館監修・海老沼真治編『「山本菅助」の実像を探る』(戎光祥出版)として刊行されている。


注釈

  1. ^ 『甲斐国志』は甲府勤番支配の松平定能により編纂が企図され、文化11年(1814年)に完成した甲斐国の地誌。編纂に際しては文書調査も行われているが、武田氏や戦国期に関する記述は『軍鑑』からの影響が強いことが指摘さえている。
  2. ^ 勘助の武田家仕官については武田家臣駒井政武の用務日誌であると考えられている『高白斎記』(甲陽日記)にも記事が見られる。現在伝わっている『高白斎記』は武田家の用務日誌を基に近世段階で武田遺臣栗原氏の事績が竄入されたものであると考えられており、勘助に関する記事も『軍鑑』からの引用であると考えられている。『高白斎記』については柴辻俊六「『高白斎記』をめぐる諸問題」。
  3. ^ 武田家の足軽大将については、確実な文書の検討から甲斐出身で小身の甲斐衆と他国出身者に大別され、武田家の重要な役職は甲斐衆により独占され、他国出身者が武田家に仕官した場合は足軽大将に任命されることが多かったことが指摘されており、三河出身の山本勘助が足軽大将に任命されている『軍鑑』の記述は整合性があるものと指摘されている[5]
  4. ^ なお、同論考は目次には掲載されていない。

出典

  1. ^ a b 平山(2006)、pp.42 - 44
  2. ^ a b c 「山本菅助」文書については後述
  3. ^ a b 平山(2006)、p.44
  4. ^ 他に『三河国二葉松』(豊川市下長山の住職の佐野知堯著・元文5年(1740年)成立、下長山は牛窪の隣)、『参河志』(西尾市の神官・渡辺政香著・元文元年(1836年)成立)
  5. ^ (平山 西川)
  6. ^ 現在も高遠城址の「勘助曲輪」に名を残している。
  7. ^ 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  8. ^ 佐藤八郎「山本勘助史料の発見」(『甲斐路』17号、1970年)[注釈 4]
  9. ^ 小林計一郎「山本勘助の名の見える武田晴信書状」(『日本歴史』268号、1970年)
  10. ^ 平山優「山本勘助・菅助研究の軌跡」『「山本菅助」の実像を探る』、pp.42 - 43
  11. ^ 小和田哲男『軍師・参謀 戦国合戦の演出者たち』(中公新書、1990年)、小和田哲男『呪術と占星の戦国史』(新潮選書、1998年)
  12. ^ 『真下家文書』の紹介・翻刻は海老沼真治「群馬県安中市真下家文書の紹介と若干の考察-武田氏・山本氏関係文書-」(『山梨県立博物館研究紀要』3号、2009年)、「山本菅助」子孫については「実在した山本菅助」(山梨県立博物館、2010)
  13. ^ 平山優「山本菅助とその一族」『「山本菅助」の実像を探る』PP.137 - 138
  14. ^ 平山優「山本勘助・菅助研究の軌跡」『「山本勘助」の実像を探る』、p.50
  15. ^ 平山優「山本菅助とその一族」『「山本菅助」の実像を探る』P.139
  16. ^ 山本十左衛門尉については、柴辻俊六「山本勘助の虚像と実像」(『武田氏研究』35号、2006年)
  17. ^ a b c d e f 山本勘助と福井藩士菅沼家”. 福井県立文書館. 2021年8月28日閲覧。
  18. ^ 『寛政重修諸家譜』巻線三百二十一、国民図書版第7輯p.958
  19. ^ 『黒駒勝蔵対清水次郎長 時代を動かしたアウトローたち』(山梨県立博物館、2013年)、p.15
  20. ^ 藤井寺市のご紹介/特産品の紹介その1「小山うちわ」”. 華やいで大阪・南河内観光キャンペーン協議会ホームページ. 2017年3月31日閲覧。
  21. ^ a b c d 『山本勘助』(山梨日日新聞社、2006年)、p.152
  22. ^ 『山本勘助』(山梨日日新聞社、2006年)、pp. 152 -153
  23. ^ 『山本勘助』(山梨日日新聞社、2006年)、p.155
  24. ^ 『山本勘助』(山梨日日新聞社、2006年)、p.154






山本勘助と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山本勘助」の関連用語

山本勘助のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山本勘助のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山本勘助 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS