ニュルンベルク 歴史

ニュルンベルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/03 04:43 UTC 版)

歴史

略史

都市の成立初期

ニュルンベルクの成立は明らかでない。ザクセンバイエルン、東フランケン、ベーメンの境界で、1000年から1400年頃に保護された重要な街道が交わる地点から徐々に成立していったと考えられている。いずれにせよ、この入植地は成立初期に既に市場の開催権を得ていた。この街は1050年神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世のSigena-Urkundeに「Norenberc」として記録されている。現在の地名の元となったこの名前は「岩山」を意味しているものと解釈されている[4]。その後、ニュルンベルク城は皇帝の拠点として神聖ローマ帝国で重きをなした。1065年ハインリヒ4世は帝国領ニュルンベルク及びその周辺地域に高等裁判所管区及び行政管区を設けた。コンラート3世は裁判権と統治権を持つニュルンベルク城伯の位を新設し、ラープス家にこれを与えた。1190年あるいは1191年以後、この地位はツォレルン家(後のホーエンツォレルン家)に移された。フリードリヒ1世(バルバロッサ)は、城伯の手に渡っていた城の背後に二重の礼拝堂(Doppelkapelle)を備えた王宮を建設した。その後、市参事会の権限が次第に拡大していった[5]

阿部謹也は、ヨーロッパ中世の都市の成立を貧民の移動との関係から考察して、「ニュルンベルクが都市としての体裁を整えてくる11世紀は、まさに隠者ゼバルドゥス(ニュルンベルクの守護聖人)詣での巡礼が集まったときでもありました。人びとは聖者の奇跡にあずかろうとし、聖遺物のあるところへと先を争っておしよせたのです」と述べている[6]

1219年、皇帝フリードリヒ2世の大特権授与(Der 'Große Freiheitsbrief')によりニュルンベルクは帝国自由都市となった。1315年ルートヴィヒ4世(バイアー)は、この市の自立性を高めるprivilegium de non evocando(控訴棄却特権)を授与した。城伯の影響力は城とその直近に制限され、フランケン地方におけるホーエンツォレルン家の拠点はバイロイトアンスバッハなどに移っていった。1427年、最後の城伯フリードリヒ6世ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世でもあった)はニュルンベルク城の権利をニュルンベルク市参事会に売却し、城伯の地位は完全に消滅した。これ以後、バイエルン王国に併合されるまで、この都市の行政権は市参事会の手に委ねられた。1256年にはライン都市同盟に参加している[7]

中世以来、ニュルンベルクはアウクスブルクと共にイタリアとヨーロッパ北部を結ぶ2大貿易都市であった。商業都市の例に漏れずユダヤ人も多く居住していたが、1298年、「リントフライシュ王」と名乗る騎士に煽動された群衆が暴徒と化して各地のユダヤ人街を襲撃し、ニュルンベルクでは698人のユダヤ人が犠牲となった。(血の中傷#ホスチアの中傷参照)後の1349年の迫害では562人のユダヤ人が犠牲になっている。1385年1463年には市当局から、1416年には皇帝から多額の金を取り立てられた[8]1498年にはユダヤ人全員が市から放逐された[5]。ユダヤ人たちは妻子をつれ動産だけをもって追い立てられた。「ユダヤ人の家や学校、その他の不動産さんは国王が没収し、以後いかなるユダヤ人も市に住むことを禁じられた」。「ユダヤ人はこの年から1850年にいたるまで、ニュルンベルクに家を構えることはできなかった」[9]

産業においては、金属手工業、繊維工業、製紙工業が発展した[10]ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (Wolfram von Eschenbach, 1160年/1180年頃 - 1220年頃またはそれ以降)は十字軍文学の傑作『ヴィレハルム』において、有名なニュルンベルクの武具鍛冶屋(Waffenschmiede)に言及している[11]1390年にはドイツ語圏最初の紙工場がニュルンベルクにできていた(寺田龍男)[12]15世紀には、書籍の印刷・出版・販売も盛んに行われた[13]

最盛期

1493年のニュルンベルク

多くの皇帝がニュルンベルクを好んで居館に選んだ。中でもカール4世は、1356年にニュルンベルクで金印勅書を公布した。勅書では即位後第1回目の帝国議会をニュルンベルクで開催することと定められ、この慣例は1543年まで続けられた。また、1423年ジギスムントは神聖ローマ皇帝の正当性を証する帝国宝物(帝国王冠等の「帝国権標」、数種のダルマティカ等の「戴冠式装束」、聖釘を嵌め込んだ聖槍の穂先と聖十字架を納めた帝国十字架等の「帝国聖遺物」)を委譲し、「年1回展観行事を開く権利とそれに付随して2週間のメッセ(年市)を開く許可を与え」た。これによってニュルンベルクは帝国内で「皇帝選挙の地フランクフルトと国王戴冠の地アーヘンに次ぐきわめて高い地位を確実なものとした」。帝国宝物のこの街での保管は、「1796年にフランス革命軍の侵攻を前にレーゲンスブルクへと移送されるまでの間」続いた[14]ヴィルヘルム・ラーベ(1831-1910)は、短篇『帝国の王冠』(Des Reiches Krone1870年)において、15世紀、「帝国の聖遺物」はボヘミアのカールシュタイン城に保管されていたが、「フス教徒の手に陥ち入りそうになった王冠を、ニュルンベルクの若い騎士が、それを守るため立ち上り、そのために組織された十字軍に加」わり、目的を果たした後、「帝国の聖遺物」とともに市に帰還するという物語を語っている[15]

1470年から1530年までの期間にはゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンやコンラート・ショット・フォン・ショッテンシュタインといった騎士達がフェーデや戦いを繰り広げたにもかかわらず、ニュルンベルクはその最盛期を迎えていた。優れた手工芸やヨーロッパの中央に位置する交易上の好条件により、この街に富がもたらされた。1363年の記録によると、当時ニュルンベルクにあった手工業のグループは50種。親方は全部で1217名、そのうち靴屋の親方が81名、仕立て屋76名、パン屋75名、刃物師73名。刃物師の多いのが目立ち、彼らが輸出商品の生産を行っていた[16]

既に14世紀末期、ニュルンベルクのフレックスドルファー=ケーグラー=ツェンナー家の会社とアマン=カーメラー=グラウ=ザイラー家の会社は「カルパティア山脈地方の鉱山業とハンガリーの経済力とに食い込」み、「両社の通商ルートは、中部ヨーロッパの全域を蔽って」いた。「二つの会社は密接に協力して営業し、他の有力なニュルンベルクの家柄、シュトローマー家、アイスフォーゲル家等々とは姻戚関係で結ばれていた」。15世紀半ばには、ヴェネツィアやアントウェルペンに代理店を開くイムホーフ会社が設立された[17]。市の政治は、名家('Genannte’)の出の、都市貴族(Patriziat)からなる参事会が取り仕切っていた[18]。市を寡頭支配した都市貴族は華麗な家紋を有し、住宅を盾・槍、甲冑などの武具で飾り立てて騎士を気取り、騎士社会の行事であった「演武会」(トーナメント)をも主催した。「1561年3月にニュールンベルクの中央マルクト広場でおこなわれた演武会をアムマンが描いた油彩画が今にのこっていて、ミュンヘンの博物館に所蔵されている」[19]。ニュルンベルクでは市参事会の権力が圧倒的に強く、手工業者(1400年頃の職種は141種)の組織は、極めて些細な点に至るまで市参事会の監視下に置かれていた。仲間団体による相互扶助よりは市参事会による生活保護が重きをなしたこの市で注目に値する福祉事業が1388年に当地の名家メンデル家により設立され、後に市に移管された「12人兄弟の館」である。これは手工業職人で年老いて働けなくなり、身寄りもない者を収容した。この養老院は400年以上も存続した。「この館に、1425年以降1799年までに収容された799人の老職人のほとんどすべてについて肖像画が残されている」[20]

中世末期、市を廻る壁は約5km、市壁内面積約160ha、そこに15世紀半ばには約20000人(1497年、約28000人)が居住していた[21]。もっとも、中世ヨーロッパの都市には、誓約により市民権を得た市民のほかに、市民権をもたない住民もいた。1431年の人口調査では、12歳以上15,499人(そのうち武装能力のある者7,146人)、市民の子弟(12歳未満)6,173人、ユダヤ人の子弟(12歳未満)52人、市民権をもたない住民の子弟692人、在俗聖職者69人、修道院の聖職者312人、計22,797人。世帯数4213であった[22]15世紀前半、ニュルンベルクでは、非市民層(外国人、異教徒、聖職者、若年下層労働者等)の割合は、子供を除く総人口の40%近くを占めたという[23]1475年の租税調査では、極貧層107人、無産の手工業者2,700人、金貨半グルデンの財産税支払い者420人、1グルデン支払い者532人、3グルデン支払い者266人、6-10グルデン支払い者157人、15-30グルデン支払い者105人、40グルデン以上支払い者27人、つまり財産税を支払う者1,507人に対して財産税を全く支払わない者2,807人で、財産税を支払う者のほぼ倍になっている。「このことは15世紀の後半にかなりの貧富の差が生まれていたことを示しています」(阿部謹也[24]。また、この民衆本の第77話では、主人公は当地の金持ちの男の家の隣に宿をとった。この男は年に一度近所の人々とその客人を招待していた。主人公が投宿したのが、ちょうど招待の日であった。しかし彼は招待されなかった。そこで、いたずらで仕返しをしている[25]

1370年頃、市当局は10か条からなる「喜捨条例」を発布し、物乞い・浮浪行為に対する規制を明文化した。このような措置はその後ヨーロッパ各地の都市で発布された条例の先駆的事例である[26]1510年頃にはじめて出版されたドイツの民衆本『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の主人公は、ポンメルンや各地で説教師になりすまして巻き上げた大金を懐に、派手に散在しようとニュルンベルクにやってくるが、夜警を誘い出して大怪我をさせている[27]。彼が夜警を目の敵にした背景に、歴史学者の阿部謹也は、「ニュルンベルクにおいても、放浪者に対する取り締りが大変厳しくなっていったという事情」を推測している[28]1501年、市は経済的発展の絶頂期にあったが、物価が高騰し、約4万人の市民のうち約1万人が最低生活条件の縁にいた[29]

14世紀半ばに肉屋の市中踊り歩き(カーニヴァルの伝統)から始まり、後に他の職種の手工業者も加わり、15世紀半ばには有力商人の子弟が行列の先駆けをするようになり、さらに山車も引き回され盛大に催されたシェンバルト祭(Schembartlauf)は16世紀半ばまで続いた[30]

1434年市参事会は「ハラーヴィーゼというペグニッツ川ぞいの美しい緑地を買い入れ、市民の憩いと競技の場」とした。「よく晴れた5月の休日には多くの市民が集まって」楽しんだ、と記録されている[31]

1552年には、ニュルンベルクにおいても「都市が維持すべき誇りと愛を視覚的に都市民にもたらす」都市景観図が作成されている[32]

15世紀はじめからニュルンベルクには娼婦宿があった。市参事会は娼婦宿に関する規則を定め、管理人をおき、彼女たちの権利をも確認した。「意志に反して仕事を強要されないこと、いつでも勝手に宿を出ることができること、少なくとも週1回は無料で入浴できること」などが定められていた[33]

ニュルンベルクでは1477年以来、法学者の助力をえて、新しい法典の編纂にとりかかり、1484年には新しい法が印刷・出版された。ドイツ国内最初の、都市法の印刷・出版であった。400頁に及ぶ同書には、「裁判の手続きから裁判所での婦人の地位、宣誓、証人の調査、証拠、そして財産、相続、契約、債務などについて解説されて」いた[34]

マイスタージンガーハンス・ザックスや、画家アルブレヒト・デューラーはこの時代にニュルンベルクで活躍した人物である。デューラーの『四人の聖人』(いわゆる『使徒たち』:アルテ・ピナコテーク所蔵)はこの街の教会のためにこの街で描かれた。この時代のニュルンベルクはケルンプラハとならぶ神聖ローマ帝国最大の都市の1つであった。しかし1525年、市当局が宗教改革を受け入れたことで、皇帝との関係は次第に疎遠となり、「皇帝の街」としての権威は失われていった。

一方でフランケン公領の創設を目論むホーエンツォレルン家と度々衝突、アンスバッハ辺境伯アルブレヒト・アヒレスクルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスとの戦争はそれぞれ第一次辺境伯戦争第二次辺境伯戦争と呼ばれたが、いずれもホーエンツォレルン家の敗北に終わった。

三十年戦争とその後

1650年のニュルンベルク地図

三十年戦争の時代、ニュルンベルク周辺の地域は長年続いた陣地戦の戦場となった。ニュルンベルク自体が征服されることはなかったものの、周辺地域の荒廃により交易が廃れ、経済的に次第に衰弱していった。戦後は1649年にニュルンベルクで「平和の宴」が催され、敵対していた両陣営がともに何日も祝宴を行い、平和の祝賀ムードを確かめ合った。帝国議会の開催地は1663年以降レーゲンスブルクに常置することが定められた。

1700年前後に活躍したバロック期の音楽家ヨハン・パッヘルベルはこの街の出身で、晩年にこの街のゼーバルドゥス教会オルガン奏者として戻り、そこで没している。

19世紀から20世紀初め

1858年のニュルンベルク地図

1796年から1806年まで深刻な事態が出来した。近隣のアンスバッハを拠点としたプロイセン政府の圧力により、遂にニュルンベルクはプロイセン支配下に屈することとなった。しかし、この条約は履行されなかった。ニュルンベルクの借金にプロイセンが手を引いたのである。同時に名門家の堕落した支配体制に対する不満がニュルンベルク住民の間で蓄積していった。こうした事態が帝国都市体制を根本から揺さぶり、この街に革命の機運をもたらしたのであった。

ナポレオン戦争期の1803年2月25日に行われた帝国代表者会議主要決議では、最初はそれでも独立体制を堅持したのだが、ライン同盟が結ばれ、帝国が崩壊した後、フランス軍がニュルンベルクを占領した。1806年9月15日、フランス軍はこの都市をバイエルン王国に引き渡し、ただちに民政の体制を整え、バイエルンの管理下に編入させた。こうして1806年にバイエルン王国は王国全体の借金の一部としてニュルンベルクの莫大な借金を被ることとなった。バイエルンはこれを整理統合して弁済に努めた。バイエルンの法律に基づき、それまでニュルンベルクでは冷遇されていたカトリック信者もプロテスタント信者と法的に同等の立場となった。

復元されたアドラー号の試走

19世紀になるとニュルンベルクはバイエルンの工業中心都市の一つとして発展した。1835年にはドイツ初の旅客鉄道アドラー号がニュルンベルクからフュルトまで運行を開始した。19世紀後半にニュルンベルクで黄銅箔が発明された。

戦間期の1920年代にはニュルンベルクで、政権獲得前の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が党大会を開催していた。ただしニュルンベルク自体は選挙でナチス党を勝たせなかった。この都市では自由主義DDPが有力な政党であった。同時に、工業都市として、バイエルンの社会民主主義の中心地でもあった。

ナチス政権下時代

戦争勝利の後にナチス党大会が開催される筈だったコングレスハレ(未完成)

ナチス政権下時代、ナチ党大会1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われ、その模様はレニ・リーフェンシュタールにより映画化された。この街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。1935年の党大会の際、ヒトラーはニュルンベルクに臨時国会を召集し、そこでユダヤ人から市民権を剥奪する法(『ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律』)が定められ、これは一般的にはニュルンベルク法と呼ばれている。ナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス党政権下のドイツを象徴する都市となった。

第二次世界大戦後に撮影された、瓦礫の山と化したニュルンベルクの街。遠景には聖ローレンツ教会が写っている

第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。イギリス空軍アメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。同年4月の4日間に渡る地上決戦(ニュルンベルクの戦い)で、さらにいくつかの歴史的建造物が破壊された。一時はこの破壊された街を放棄して、他の場所に新しい街を創ることが真剣に検討されたほどの被害状況であった。 同大戦期、ナチスにとってその精神性を保持する街として「神聖ローマ帝國宝物展」が開催された。今日コンサート会場として使われる「聖カテリーナ教会」が会場となった。そうした宝物の保管庫がObere Schmiedgasse(オーベレ・シュミートガッセ、上鍛冶屋小路)52番地の地下にあった。Kunstbunker(クンストブンカー、芸術品地下保管庫)は今でも保存、公開され訪れる歴史ファンは多い。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後、1945年から戦勝国はナチス独裁政権下の指導的戦争犯罪人に対する裁判、いわゆる「ニュルンベルク裁判」を実施した。市の再建は、建設責任者ハインツ・シュマイスナーの指揮の下、かつての都市構造に従って街の再建を行うという方向付けがなされた。このため、オリジナルの建物が広範囲に失われたにもかかわらず、たとえ実際には大部分の建物が戦後に再建されたものであるにせよ、城壁に囲まれた旧市街は中世の面影を残す美しい町並が復元され、多くの場所で中世や近世とのつながりを感じ取ることができるのである。

平和と人権の都市

過去を深く反省し人権の道ドイツ語版ニュルンベルク人権センタードイツ語版などを設置し、ニュルンベルク国際人権賞ドイツ語版ドイツ人権映画賞ドイツ語版などの授与などを行ってる。

市町村合併

1825年まで市域の面積は160.84ha(1.6km2)であった。その後、産業革命に伴い人口は急速な上昇を続け、市域は多くの独立した自治体や地域を合併して拡大した。現在の市域は186.6km2である。

人口推移

19世紀の工業化の始まりによって人口は急速に増加した。1812年のこの街の人口は2万6千人であったが、1880年には10万人を超えて大都市の仲間入りをした。1900年には25万人、1972年にはその2倍で史上最大の人口51万5千人を記録した。1985年に46万5千人にまで減少したが、その後再び増加に転じた。バイエルンの統計データ局の記録によると2005年12月31日付の公式な人口は499,237人である。また、2006年11月18日に50万人目の市民が誕生した。50万人前後での増減があったため、これはニュルンベルクにとって3回目のできごとである。


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  49. ^ Erhard Gorys : Lexikon der Heiligen. München: Deutscher Taschenbuch Verlag, 6. Aufl. 2005 (ISBN 3-423-34149-1), S. 298. - Hiltgart L. Keller: Reclams Lexikon der Heiligen und der biblischen Gestalten. Stuttgart: Reclam 1968, S. 448. ‐ 阿部謹也『中世の窓から』朝日新聞社 1981年、13-15頁。
  50. ^ 1797年、ルートヴィヒ・ティークにより加筆出版。1793年夏、ティークとともにエアランゲンで学んでいたヴァッケンローダーは、バンベルクとニュルンベルクを訪れた。そこでのドイツ古美術体験を文学作品に形象化したのが、『芸術を愛するある修道士の心情の吐露』である。Günther Dietel: Reiseführer für Literaturfreunde. I: Bundesrepublik Deutschland einschl. Berlin . Frankfurt/M-Berlin: Ullstein 1965. S. 240.






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