青山幸成 青山幸成の概要

青山幸成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:43 UTC 版)

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青山 幸成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正14年(1586年
死没 寛永20年2月16日1643年4月4日
改名 藤蔵(幼名)、幸成
別名 石之助
戒名 梅窓院殿前大府香譽淨薫大禪定門
墓所 東京都港区青山長青山寶樹寺梅窓院浄土宗
高野山金剛峯寺奥の院(高野山真言宗
官位 従五位下大蔵少輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
常陸国内→遠江掛川藩主→摂津尼崎藩
氏族 青山氏
父母 父:青山忠成、母:天方通興の娘
兄弟 忠次忠俊、朝比奈泰重、幸成天方通直、川口近次室
小笠原信之の娘
側室:小出氏、福永氏
幸利幸通幸正幸高堀親昌継室、水谷勝宗正室、松平信久正室
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生涯

天正14年(1586年)、徳川家の譜代家臣・青山忠成の四男として浜松で誕生した。慶長4年(1599年)に元服して徳川秀忠の近侍として仕えた。慶長7年(1602年)、下総国印旛郡で500石を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参加し、元和5年(1619年)には書院番頭・小姓・10人組頭・評定衆に任じられ、常陸国新治郡筑波郡などで1万石を与えられ、以前からあった所領とあわせて1万3000石の大名となった。

寛永10年(1633年)2月3日、遠江掛川藩に2万6000石に倍増された上で移封される。寛永12年(1635年)7月28日には5万石に加増された上で摂津尼崎藩に移封された。幸成は藩政の基礎を確立するため、儒者を招聘して文学を奨励し、大庄屋制度を制定し、積極的な新田開発を行なって4000石を新開発した。寛永17年(1640年)には讃岐国高松藩主・生駒高俊改易を伝える使者を務め、その後の寛永19年(1642年)4月の松平頼重の高松藩入封にも協力している。

しかし直後の8月から病に倒れた。寛永20年(1643年)1月には3代将軍・徳川家光の見舞いを受けたが回復せず、次男・幸通、三男・幸正、四男・幸高にそれぞれ3000石、2000石、1000石を分与して青山3分家を創設した上で、2月16日に死去した。享年59。

家督は長男の幸利が継ぎ、所領は弟に分与したため4万8000石となった。

系譜




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