金剛組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 03:27 UTC 版)
概要
神社仏閣建築の設計・施工、城郭や文化財建造物の復元や修理等を主に手がけている。旧来からの伝統的な建築を得意分野としてきたが、神社仏閣にもコンクリート建築が増加したことにより大手ゼネコンとの価格競争に巻き込まれた結果、売上の減少や資金繰りの悪化により経営危機に見舞われたため髙松建設が支援を行った。
2005年11月に、同社が設立した受け皿会社(以下「新・金剛組」)に主力の寺社建築事業を譲渡するとともに、従業員の大半も新・金剛組へ転籍した(新旧分離)。現在は本業の宮大工に立ち戻り、100人以上の宮大工を抱えている[4][5][6]。
沿革
- 578年、四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工(金剛、早水、永路)のうちの1人である金剛重光により創業。江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工となる。
- 593年、四天王寺創建。
- 四天王寺を築いた工法は今も金剛組「組み上げ工法」に生きている。
- 1576年、織田信長の焼き討ちにより四天王寺焼失。
- 16世紀にかけて、大坂城建設に携わったと伝えられる。
- 1614年の大坂冬の陣で再び四天王寺焼失。四天王寺は戦火や自然災害のため7度の焼失と再建をくり返すがその都度、歴代の金剛組が再興に取り組んだ。
- 1868年、四天王寺、寺領を失う。金剛組は四天王寺からの禄を受け取れなくなる。
- 1903年、大鐘楼の建立。
- 1934年、室戸台風で四天王寺五重塔が倒壊。第38代棟梁で歴代初の女棟梁・金剛よしえ[7]のもとで金剛組が再建を果たす。
- 1955年2月3日、株式会社化。
- 2005年11月1日、髙松建設が全額出資した新・金剛組が設立される。
- 2006年
- 2007年7月、民事再生手続き中の株式会社中村社寺の全株式を取得[9]。
- 2008年
- 2011年3月30日、親会社が髙松コンストラクショングループから(新)髙松建設に異動[10]。
- 2013年10月28日、39代目金剛利隆が後継者不在のまま89歳で死去。
- 2014年1月11日、宮大工たちが1年の安全を祈る神事「手斧(ちょんな)始め」(大阪市無形民俗文化財)が、史上初めて、当主不在のまま行われた(金剛組相談役で権大工の植松襄一が「正大工代務者」として代行を務めた)[11]。なお現在も日本で「手斧始め」の伝統を受け継ぐ建設企業は金剛組と清水建設のみとなる。
事業所
- 本社所在地 - 大阪府大阪市天王寺区四天王寺一丁目14番29号
- 東京支店 - 東京都港区芝二丁目14番5号
- 京都支店 - 京都府京都市中京区烏丸通六角上ル饅頭屋町617番地 六角ビル
- 名古屋支店 - 愛知県名古屋市中区栄2丁目4-27
- ^ a b c d e “経営事項審査結果(金剛組、2019年3月31日時点)”. 建設業情報管理センター. 2020年4月16日閲覧。
- ^ “Kongo Gumi” (英語). Our Group Companies. 髙松コンストラクショングループ. 2024年4月8日閲覧。
- ^ 創業年については中小企業基盤整備機構(2007年、31頁)に、世界最古である旨については内閣府経済社会総合研究所(2009年、32頁)に記載がある。
- ^ “沿革”. 金剛組. 2023年10月1日閲覧。
- ^ 東昌樹 (2019年12月6日). “金剛組は倒産したのか 長寿企業を目指すには”. 日経ビジネスオンライン. 2023年10月1日閲覧。
- ^ “ニッポンの伝統力 ~世界一!老舗企業の底力~”. 日経スペシャル ガイアの夜明け. テレビ東京 (2008年1月8日). 2023年10月1日閲覧。
- ^ 第37代棟梁・金剛治一の妻で「なにわの女棟梁」と呼ばれた。
- ^ 新金剛組には旧金剛組最後の棟梁となった39代棟梁の金剛利隆が相談役についていた。
- ^ 『株式会社中村社寺の支援について』(プレスリリース)高松コンストラクショングループ、2007年7月17日 。2020年4月16日閲覧。
- ^ 株式会社髙松コンストラクショングループ2011年3月期有価証券報告書p.7。
- ^ 創業1400年、金剛組に異変 「最古の企業」当主不在(朝日新聞デジタル 2014年3月29日17:22配信 2014年3月30日閲覧)
固有名詞の分類
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