越前一向一揆
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1575年
発端
越前一向一揆 | |
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戦争:安土桃山時代 | |
年月日:天正3年(1575年)8月 | |
場所:越前国 | |
結果:織田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田軍 | 越前一揆衆 |
指導者・指揮官 | |
織田信長 | 下間頼照 七里頼周 朝倉景健など |
戦力 | |
30,000余 | 不明 |
損害 | |
- | 12250以上 |
前述のとおり、顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主らは、討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占し、さらに織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課すなど悪政を敷いた[注 3]。このため、越前における天台宗や真言宗らが反発し、真宗高田派(専修寺派)をはじめ国人衆や民衆、遂には越前の一向門徒までもが反発。天正3年(1575年)頃から、一揆衆は内部から崩壊しつつあった。
一方、信長はこの年から領国全域で道路や橋を整備するなど、各地での戦いに備えていた。そして5月には武田勝頼との合戦に大勝(長篠の戦い)、余裕の生じた信長は越前の一向一揆の分裂を好機ととらえ、越前への侵攻を決める。
信長は8月12日に岐阜を出発し、翌13日に羽柴秀吉の守る小谷城に宿泊。ここで小谷城から兵糧を出し、全軍に配った。14日、織田軍は敦賀城に入った。
一揆勢の配置は以下だったという。
- 板取城 下間頼俊と加賀・越前の一揆勢
- 木目峠 石田西光寺と一揆勢
- 鉢伏城 専修寺の住持、阿波賀三郎・与三兄弟、越前衆
- 今城・火燧城 下間頼照
- 大良越・杉津城 大塩の円強寺衆と加賀衆
- 海岸に新しく作られた城 若林長門守・甚七郎父子と越前衆
- 府中・竜門寺 三宅権丞
このほか、西国の一揆勢も加わっていたという。
8月15日、風雨の強い日であったが、織田軍は大良(福井県南条郡南越前町)を越え、越前に乱入した。
信長率いる織田軍は3万余[6]。武将は佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、佐々成政、前田利家、簗田広正、細川藤孝、塙直政、蜂屋頼隆、荒木村重、稲葉良通(一鉄)・稲葉貞通、氏家直昌、安藤守就、磯野員昌、阿閉貞征・阿閉貞大、不破光治・不破直光、武藤舜秀、神戸信孝、津田信澄、織田信包、北畠信雄(伊勢衆)、金森長近、原長頼[注 4]が動員された。また軍勢の最前列には、越前衆のうち坊官の悪政に反発し織田勢に寝返った国人や浪人、宗徒が配置された。
これと会わせて、海上からは水軍数百艘が進んだ。若狭の粟屋越中守、逸見駿河守、粟屋弥四郎、内藤筑前、熊谷伝左衛門、山県下野守、白井、松宮、寺井、香川、畑田、そして丹後の一色義道・矢野・大島対馬守・桜井豊前守が動員された。これら水軍は浦や港に上陸し、あちこちに放火した。
対する一向一揆側は、円強寺勢と若林長門守親子が攻撃してきたが、羽柴秀吉・明智光秀が簡単に打ち破った。羽柴隊・明智隊は200~300人ほどを討ち取ると、彼らの居城である大良越・杉津城および海岸の新城に乗り込み、焼き払った。討ち取った首はその日のうちに敦賀の信長に届けられた。
この日の夜、織田勢は府中竜門寺に夜襲をかけ、近辺に放火した。背後を攻撃された木目峠・鉢伏城・今城・火燧城の一揆勢は驚き、府中に退却していったが、府中では羽柴秀吉・明智光秀が待ち受けており、2000余りが討ち取られた[注 5]。この時、鉢伏城に拠った杉浦玄任は討死、城将の阿波賀三郎・与三兄弟は降伏して許しを求めたが、信長は許さず塙直政に命じて殺害した。
8月15日、織田軍は杉津城に攻撃を開始する。この城は大塩円強寺と堀江景忠が守っていたが、織田の大軍が来襲してきたことを知ると、景忠は森田三左衛門や堺図書助らとともに内応して織田勢に寝返った。これを受けて、板取城の下間頼俊、火裡城の下間頼照、そして今庄の七里頼周は逃亡。一向一揆指導部は完全に崩壊し、一揆衆は組織的な抵抗が不可能な状況に陥った。
16日、信長は馬廻をはじめとした兵1万を率いて敦賀を出発し、府中竜門寺に布陣すると、今城に福田三河守を入れて通行路を確保させた。
下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持らは越前の山中に逃亡・潜伏したが、一揆衆の不利を悟って織田方に寝返った安居景健に殺害された。景健は下間らの首級を持参して信長に赦免を請うたが許されず、自害を命じられた。この時、景健の家臣の金子新丞父子・山内源右衛門ら3人が切腹して殉死した(信長公記)。
18日、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の3人が鳥羽城を攻撃し、敵勢500~600を討ち取って陥落させた。金森長近、原長頼は美濃口から根尾~徳山経由で大野郡へ入り、杉浦玄任の軍を壊滅させ、数箇所の小さな城を落として一揆衆多数を斬り捨て、諸口へ放火した。杉浦玄任はここで戦死したとも、落ち延びたともされる。
一揆は完全に崩壊し、一揆衆は混乱の中取るものも取りあえず右往左往しながら山中へ逃げていった。しかし信長は殲滅の手をゆるめず、「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命じた[注 6][注 7]。
一連の合戦において、一揆衆は1万2250人以上が討ち取られた。さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万余に上るとされる[7][注 8]。
9月2日には一向一揆の味方をしたことを問われた豊原寺が全山の焼き討ちを受けた。
こうして、越前から一向衆は完全に駆逐された。また、1932年(昭和7年)に小丸城跡(武生市、現在の越前市の一部)から発見された瓦に、5月24日(1576年(天正4年)のと比定される)に前田利家が一揆衆千人ばかりを磔、釜茹でにしたことを後世に記録して置く、という内容の書き置きがある[注 9]。
戦後処理
信長は越前8郡75万石を柴田勝家に与え、北ノ庄城主に命じた。越前府中10万石は前田利家・佐々成政・不破光治に均等に与えられ、府中三人衆として勝家の補佐・監視役を担った。また、大野3万石は金森長近に、2万石は原長頼に与えられた。また、信長は越前国掟を作っている。
こうして、柴田勝家を頂点とする織田家の北陸方面における支配体制が確立した。
影響
この戦いは、織田信長の大勝であったと同時に、あらためて信長の武威を示す戦いともなった。また、この一件で石山本願寺中央からの指導があまり地方には深く及んでいないことも露見した。その後、隣国加賀の一向一揆も天正8年(1580年)までに織田軍に一部を除いてあらかた討伐され、越前一向一揆の指導者で唯一難を逃れて加賀へ逃亡していた七里頼周もこの時処断されたという。
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