藤原房前
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官歴
注記のないものは『六国史』による。
- 時期不詳:正六位下
- 大宝3年(703年) 正月2日:東海道巡察使
- 慶雲2年(705年) 12月27日:従五位下(越階)
- 和銅2年(709年) 9月26日:東海道東山道巡察使
- 和銅4年(711年) 4月7日:従五位上
- 和銅8年(715年) 正月10日:従四位下(越階)
- 霊亀3年(717年) 10月21日:参議
- 養老3年(719年) 正月13日:従四位上
- 養老5年(721年) 正月5日:従三位(越階)。10月24日:内臣
- 養老6年(722年) 2月23日:見兼授刀頭[30]
- 神亀元年(724年) 2月4日:正三位
- 神亀3年(726年) 日付不詳:授刀長官、兼近江若狭按察使[31]
- 神亀5年(728年) 7月21日:兼中衛大将[32]
- 天平元年(729年) 9月28日:兼中務卿
- 時期不詳:兼民部卿
- 天平4年(732年) 8月17日:東海道東山道節度使
- 天平9年(737年) 4月17日:薨去(参議民部卿正三位)。10月7日:贈正一位左大臣
- 天平宝字4年(760年) 8月7日:贈太政大臣
系譜
『尊卑分脈』による。
『麻績氏系譜』では「中臣不比登」は「妻麻貫玉取ノ子ヲ養嗣」とし、それが房前公であったとしている。
能のなかの房前
房前は能楽『海人』の登場人物としても知られる。この能によると、房前大臣は亡き母を訪ねて讃岐国、志度の浦を訪れる。そこで聞かされたのは父不比等と母である海女の物語。
「13年前淡海公(不比等のこと)はある目的をもってこの地にきた。そこで一人の海女とであい、子を儲けた。淡海公は海女に この地にきた目的は、唐の高宗から下賜された宝物『面向不背の珠(めんこうふはいのたま)』を興福寺に届ける際、志度湾沖で嵐にあい紛失し、それを探しだすことだと語る。海女はその宝物を竜宮から取り戻せば、身分の低い自分のようなものが生んだ子でも正式な息子として認めてくれるかと問い、淡海公の確約を得て海に飛び込む。そして竜宮へ赴き、自分の乳の下をかき切って体内に珠を隠し海上へ辿り着く。珠は見事に淡海公の手に取り戻されたが、海女は傷がもとで亡くなってしまう。淡海公は約束通り房前を正式な息子として都に連れ帰った」という物語である。
この話を聞いた房前は母の菩提を弔い、法華経の功徳で母は成仏したという。
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- ^ 山野清二郎「『懐風藻』の詩風の變遷 : 藤原氏の詩から見て」『漢文學會々報〔漢文学会会報〕』第34号、東京教育大学漢文学会、1975年6月、28,34、doi:10.15068/00149243“『懐風藻』には藤原氏の詩が19首載せられている。不比等5首、武智麻呂なし、房前3首、宇合6首、麻呂5首(4首と数える見方もあり)である。”
- ^ 『令集解』衣服令朝服条
- ^ 『公卿補任』
- ^ 『類聚三代格』巻4
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