若秩父高明 来歴

若秩父高明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 07:20 UTC 版)

来歴

1939年3月16日埼玉県秩父郡高篠村(現:埼玉県秩父市)の大日本帝国陸軍軍人の家に長男として生まれる。小学生の頃から大食いで体格が大きくなり、高篠中学校では相撲部に所属して毎日一升の飯を食い、秩父郡の相撲大会で活躍した。1954年埼玉県立秩父農工高等学校へ進学したが、ある休日に花籠部屋が2代花籠(住ノ江平五郎)の追善興行を行っていると聞いて見学に行くと、小部屋であるがゆえに間が持てないとして飛び入り参加を許された。何番が相撲を取った後に花籠から見い出されて勧誘され、相撲が好きだったので入門しようとするが母に反対された。しかし、2代花籠のを発見した張本人である地元の外科病院長と花籠がすぐに母を直接説得して入門を了承したため、中途退学して花籠部屋へ入門した。

1954年5月場所に於いて、15歳で初土俵を踏んだ。四股名は、故郷・埼玉県秩父と兄弟子の若乃花幹士(第45代横綱)から「若秩父」と命名され、序ノ口に付いてから引退するまでこの名で通した。

入門してからえびすこぶりは相変わらずであり、幕下時代は毎食どんぶり飯10杯を食べたという。若乃花からの直々の指導は特に効果があり、また若秩父自身も稽古熱心であることから出世も順調で、1958年1月場所で新十両昇進。因みに、幕下通過までの間に45kgの増量を果たしたという。同年5月場所では富樫剛北葉山英俊明歩谷清玉響克己冨士錦章若三杉彰晃と自身を加えた7人による十両優勝決定戦を制し、十両優勝を果たした。この時の7人は全員が若い有望力士だった[3]ことから、黒澤明監督の映画を捩って「7人の侍」と呼ばれた。

7人による十両優勝決定戦を制して十両優勝し、2場所後に新入幕を果たした若秩父は、新入幕の場所となった同年9月場所にていきなり12勝3敗と好成績を残す。この場所では、敢闘賞を受賞して注目された。当時19歳の若武者だったことから、同時に新入幕した富樫や豊ノ海義美と共に、「ハイティーン・トリオ」と呼ばれ[1]、注目された[4]

1959年1月場所では横綱・千代の山雅信に引導を渡す金星を奪ったが、この取組は後に若秩父本人が停年退職前最後のテレビ出演となったNHK大相撲中継で向正面に座った際、「生涯最高の思い出の取組」として選択した。なお、この時の正面解説は、偶然にも千代の山(年寄・九重)の弟子であった北の富士勝昭だった。

この場所では10勝5敗と大きく勝ち越して2度目の敢闘賞を受賞し、翌場所に於いて19歳11ヶ月という若さで新小結に昇進し、史上初の10代の三役力士となった[1][5]

1960年5月場所では、優勝次点となる13勝2敗という好成績を残しながらも西前頭14枚目という低地位から、三賞を見送られた[6]

巨腹を使っての吊り・寄り[1]と、どんな古参力士にも物怖じしない性格で素質にも恵まれ、さらに若乃花からの熱心な指導とそれを受けて熱心に稽古に打ち込む姿勢から大関昇進を期待された。しかし、当時「力士の職業病」とも呼ばれていた糖尿病を患ったことで大関昇進どころか三役定着すら果たすことができず、その後は幕内の座を明け渡すこともあった。それでも、禁酒・禁煙を実行、食事もパン豆腐蜂蜜を食べる節制に努めて決して休場せずに再入幕を果たし、その姿は他の力士から模範とされた。さらに、ある年の11月場所で負け越し、ゲン直しとして中洲で飲酒している時に絡んできた泥酔客を軽く振り払おうとして吹っ飛ばしたことが「暴力」と報じられた鬱憤を晴らそうと、制限時間一杯の際に大量のを高々と撒き始めた[7]。この塩撒きは、若秩父の入幕時点で既に幕内在位10年以上のベテランであり、指先で少量の塩を取って撒いていた出羽錦忠雄のそれと比較され「塩などは 安いもんだと 若秩父」「出羽錦 塩の値段を 知っており」と川柳にも詠まれたことがある。

1968年11月場所を最後に現役を引退し、年寄・関ノ戸を経て同・常盤山を襲名した。引退以来、花籠部屋付きの親方として後輩の指導に全力を尽くしたが、1985年12月の花籠部屋閉鎖によって部屋継承を辞退、放駒部屋へ移籍した。1998年には日本相撲協会監事(現:副理事)へ就任し、巡業部副部長も歴任した。

2004年3月場所中に65歳の誕生日を迎えた。本来は65歳の誕生日前日に停年退職するが、本場所開催期間中に誕生日を迎える場合はその場所の千秋楽まで親方として職務を続け、「千秋楽で停年に達した」という扱いとなるため、同場所の千秋楽を最後に停年退職した。

2014年9月16日午後6時45分、肝不全のため東京都三鷹市内の病院で死去。75歳没[8]


  1. ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p24
  2. ^ 中英夫『武州の力士』埼玉新聞社、1976年5月、241頁。 
  3. ^ 平幕止まりの玉響以外は全員が後に名力士と呼ばれ、富樫(柏戸)・北葉山・若三杉(大豪)・冨士錦(富士錦)の4人が幕内優勝を果たしたほか、明歩谷(明武谷)も優勝こそ無いものの決定戦には2度出場した。その後、富樫は横綱、北葉山は大関昇進を果たし、若秩父・若三杉・明歩谷の3人は関脇、冨士錦も小結まで出世している。
  4. ^ 元関脇・若秩父の加藤高明さん死去 75歳 豪快塩まきで人気”. スポニチ Sponichi Annex (2014年9月18日). 2024年4月18日閲覧。
  5. ^ 埼玉県出身の新三役は、ちょうど60年後(2019年3月場所)の北勝富士大輝所沢市出身)まで現れなかった。その北勝富士の新三役(小結)から1年以内に阿炎政虎越谷市出身)、大栄翔勇人朝霞市出身)も三役に進んでいる(阿炎と大栄翔は、若秩父と並ぶ関脇まで進んだうえ、幕内最高優勝も果たす)。
  6. ^ この場所の三賞受賞者は、殊勲賞が若三杉、敢闘賞が大鵬、技能賞が柏戸であった。同部屋の後輩でもある若三杉は、西前頭4枚目の地位で14勝を挙げて優勝を果たした上、金星も1つ獲得していた。大鵬は東前頭6枚目の地位で11勝4敗と大勝ちし、金星を1つ獲得していた(当時は系統別総当たり制度を採用しており、二所ノ関一門の場合は幕内力士が多く在籍していた関係上この地位で横綱戦が組まれることも十分に有り得た)。柏戸は、西関脇の地位で10勝5敗という成績を残していた。
  7. ^ 若秩父は新入幕の1958年から、九州場所には3場所連続で負け越している(九州場所開催は1957年11月からで、この年は東幕下筆頭で勝ち越し)が、1959年5月公開の小津安二郎監督作品「お早よう」で、同年初場所千秋楽の北の洋戦のテレビ画面(実は相撲協会映画部撮影のフィルム)が映し出され、アナウンサーが「塩を高々と撒き上げ」云々と実況している。したがって、このエピソードが事実とすれば、暴力報道事件は1958年九州場所後で、塩を多量に撒きだしたのは翌場所のこの1959年初場所からということになる。
  8. ^ 元関脇若秩父 加藤 高明氏 東京新聞 2014年9月17日(2014年9月17日閲覧)


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