若秩父高明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 07:20 UTC 版)
改名歴
- 若秩父 高明(わかちちぶ こうめい)1954年9月場所 - 1959年3月場所、1960年5月場所 - 1963年11月場所、1966年11月場所 - 1968年11月場所
- 若秩父 清邦(- きよくに)1959年5月場所 - 1960年3月場所
- 若秩父 浩之(- ひろゆき)1964年1月場所 - 1966年9月場所
年寄変遷
- 関ノ戸 高明(せきのと こうめい)1968年11月 - 1969年1月
- 常盤山 高明(ときわやま - )1969年1月 - 2004年3月(停年退職)
著書
- 『若秩父ーッ。○●の世界を生きて50年』(2004年、上毛新聞社、ISBN4880588873)
参考文献
- 『土俵の修羅』(著者:石井代蔵、新潮文庫刊、1985年)p160-p167 「ライバル列伝:負けたくないあまり、食いすぎた男 若三杉と若秩父」(花籠部屋)
- 『大関にかなう』(著者:石井代蔵、文春文庫刊、1988年)p225-p286 「腹がいっぱい 若秩父」
- 『戦後新入幕力士物語 第二巻』(著者:佐竹義惇、ベースボール・マガジン社刊、1990年)p216-p227
- 『大相撲杉並場所展 : 阿佐ケ谷勢その活躍と栄光の歴史』(杉並区立郷土博物館編、1991年)
- 『若秩父ーッ。 : 〇●の世界を生きて50年』(著者:常盤山・加藤高明、上毛新聞社出版局 編、2004年)
- 『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』 ベースボールマガジン社、2017
関連項目
- ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p24
- ^ 中英夫『武州の力士』埼玉新聞社、1976年5月、241頁。
- ^ 平幕止まりの玉響以外は全員が後に名力士と呼ばれ、富樫(柏戸)・北葉山・若三杉(大豪)・冨士錦(富士錦)の4人が幕内優勝を果たしたほか、明歩谷(明武谷)も優勝こそ無いものの決定戦には2度出場した。その後、富樫は横綱、北葉山は大関昇進を果たし、若秩父・若三杉・明歩谷の3人は関脇、冨士錦も小結まで出世している。
- ^ “元関脇・若秩父の加藤高明さん死去 75歳 豪快塩まきで人気”. スポニチ Sponichi Annex (2014年9月18日). 2024年4月18日閲覧。
- ^ 埼玉県出身の新三役は、ちょうど60年後(2019年3月場所)の北勝富士大輝(所沢市出身)まで現れなかった。その北勝富士の新三役(小結)から1年以内に阿炎政虎(越谷市出身)、大栄翔勇人(朝霞市出身)も三役に進んでいる(阿炎と大栄翔は、若秩父と並ぶ関脇まで進んだうえ、幕内最高優勝も果たす)。
- ^ この場所の三賞受賞者は、殊勲賞が若三杉、敢闘賞が大鵬、技能賞が柏戸であった。同部屋の後輩でもある若三杉は、西前頭4枚目の地位で14勝を挙げて優勝を果たした上、金星も1つ獲得していた。大鵬は東前頭6枚目の地位で11勝4敗と大勝ちし、金星を1つ獲得していた(当時は系統別総当たり制度を採用しており、二所ノ関一門の場合は幕内力士が多く在籍していた関係上この地位で横綱戦が組まれることも十分に有り得た)。柏戸は、西関脇の地位で10勝5敗という成績を残していた。
- ^ 若秩父は新入幕の1958年から、九州場所には3場所連続で負け越している(九州場所開催は1957年11月からで、この年は東幕下筆頭で勝ち越し)が、1959年5月公開の小津安二郎監督作品「お早よう」で、同年初場所千秋楽の北の洋戦のテレビ画面(実は相撲協会映画部撮影のフィルム)が映し出され、アナウンサーが「塩を高々と撒き上げ」云々と実況している。したがって、このエピソードが事実とすれば、暴力報道事件は1958年九州場所後で、塩を多量に撒きだしたのは翌場所のこの1959年初場所からということになる。
- ^ 元関脇若秩父 加藤 高明氏 東京新聞 2014年9月17日(2014年9月17日閲覧)
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