能代丸 (特設巡洋艦)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 能代丸 (特設巡洋艦)の意味・解説 

能代丸 (特設巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 19:45 UTC 版)

能代丸
徴用前の「能代丸」
基本情報
船種 貨物船
クラス N型貨物船
船籍 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱造船長崎造船所[注釈 1][1]
母港 東京港/東京都
姉妹船 N型貨物船5隻
信号符字 JRPJ
IMO番号 39735(※船舶番号)
改名 能代丸→能代川丸→能代丸
建造期間 359日
就航期間 3,581日
経歴
起工 1933年12月7日[2]
進水 1934年6月28日[2]
竣工 1934年11月30日[2]
最後 1944年9月21日被弾沈没(マニラ空襲)
要目
総トン数 7,183トン(1934年)
7,189トン(1938年)[3]
純トン数 4,317トン
載貨重量 9,664トン(1934年)
9,804トン(1938年)[3]
排水量 不明
登録長 136.00m
垂線間長 137.05m[3]
型幅 19.0m[3]
型深さ 10.50m[3]
高さ 30.48m(水面から1番・4番マスト最上端まで)
16.76m(水面から2番・3番マスト最上端まで)
13.71m(水面から煙突最上端まで)
喫水 3.53m[3]
満載喫水 8.42m[3]
機関方式 三菱ズルツァーディーゼル機関 1基[3]
推進器 スクリュープロペラ 1基[3]
最大出力 7,490BHP[3]
定格出力 6,700BHP[3]
最大速力 18.5ノット[3]
航海速力 14.0ノット[3]
航続距離 15ノットで40,000海里
乗組員 50名[3]
1937年8月8日徴用。
高さは米海軍識別表[4]より(フィート表記)。
テンプレートを表示
能代丸/能代川丸
基本情報
艦種 特設水上機母艦
特設巡洋艦
特設運送船
艦歴
就役 1941年5月1日(海軍籍に編入時)
横須賀鎮守府部隊/横須賀鎮守府所管
除籍 1944年11月10日
要目
兵装 特設巡洋艦時
安式15cm砲4門
三年式8cm単装高角砲1門
九二式7.7mm機銃2門[5]
特設運送船時(1944年7月)
安式15cm砲2門
九六式25mm連装機銃2基4門
九三式13mm機銃単装1基1門
九二式7.7mm機銃2門
爆雷16個
装甲 なし
搭載機 水上偵察機2機[5]
レーダー E27型電波探知機1基
徴用に際し変更された要目のみ表記。
九六式25mm機銃および電波探知機は1944年7月装備。
テンプレートを表示

能代丸(のしろまる)は、かつて日本郵船が所有し運航していた貨物船太平洋戦争中は特設巡洋艦、特設運送船として運用された。

艦歴

「能代丸」は日本郵船のニューヨーク航路改善のために投入されたN型貨物船の四番船として、三菱長崎造船所1933年(昭和8年)12月7日に起工し1934年(昭和9年)6月28日に進水、11月30日に竣工した。日本郵船はN型貨物船の建造に際して第一次船舶改善助成施設を活用し、「能代丸」の見合い解体船として自社持ち船の中から、日本最初の1万トン超貨客船の一隻である「天洋丸」(13,041トン)を充当した[6]。12月下旬からニューヨーク航路に就航し[7]、往航では生糸や雑貨、フィリピン産のマンガン鉱などを積み取り、帰航では鋼材や綿などを積み込んで横浜とニューヨークの間を28日間で走破した[8]。しかし、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦勃発など世界情勢の変化により、遠洋航路は徐々に縮小されていった。

特設水上機母艦・能代川丸

1941年(昭和16年)5月1日、「能代丸」は日本海軍に徴傭され、次いで7月1日付で特設水上機母艦として入籍、横須賀鎮守府籍となる[9]。ところがこの時点で、日本水産所有で同名の216トンのトロール船が日本海軍に特設掃海艇として徴傭され在籍していたため、後に入籍した「能代丸」は7月10日付で便宜上、海軍内部でのみ「能代川丸」と呼称されることとなった[9][10]。7月1日から8月19日まで横須賀海軍工廠で艤装工事が行われたが、特設水上機母艦として使用されることがないまま8月20日付けで除籍され、9月20日に特設巡洋艦として入籍[9][10]。この入籍を機に、トロール船のほうは「第二号能代丸」と呼称されるようになった[9]。工事竣工後は横須賀警備戦隊の旗艦を務め[10]1942年(昭和17年)4月10日からは新編成の第二海上護衛隊(茂泉慎一中将)に属して輸送船護衛に従事する。

5月20日以降には次の船の護衛を行った[11]

  • 三江丸(トラック・ラバウル間、5月22日から23日)
  • 第二圖南丸(トラック・クェゼリン間、5月25日から30日)
  • 昌壽丸(ポナペ・トラック間、6月2日から4日)
  • くらいど丸、水戸丸(ラバウル・豊後水道間、6月10日から22日)
  • 山城丸、福荷丸、立山丸(横須賀・サイパン間、7月1日から6日)
  • 新夕張丸(横須賀・ポナペ間、7月1日から11日)
  • 金龍丸(トラック・ラバウル間、8月2日から4日)

「能代丸」が特設巡洋艦として行動した期間は短く、8月5日付で特設運送船に類別変更された[9]。また、同日第二海上護衛隊から除かれている[12]。8月9日から12日にかけて「能代丸」は横須賀鎮守府第五特別陸戦隊のラバウル方面への派遣隊をトラックからラバウルまで輸送した[13]

10月19日から10月24日まで横須賀海軍工廠で特設運送船としての艤装工事を実施した[9]

特設運送船となった「能代丸」は輸送作戦に従事し、11月3日に東京湾を出港してサイパン島テニアン島およびトラック諸島を経由してラバウルに進出[14]。ラバウル停泊中の1943年(昭和18年)1月16日には空襲を受け、四番船倉に命中弾があり損傷する[15]。応急修理のあと、1月下旬から2月にかけてはショートランドあるいはコロンバンガラ島への輸送に任じ、任務を終えてラバウルに帰投後、3月12日にトラックに向けて出港する[15]。しかし、翌3月13日午後に南緯00度10分 東経151度06分 / 南緯0.167度 東経151.100度 / -0.167; 151.100の地点を航行中、アメリカ潜水艦「グレイバック」に発見された[15][16]。「グレイバック」は魚雷を4本発射し、1本が船首をかすめ他の3本のうち1本が右舷五番船倉付近に命中して損傷した[15][17]。トラックでの応急修理のあと、サイパン島を経て6月19日に横須賀に帰投し、7月21日まで本修理が行われた[18]

このあと1年近くの動向はほとんど不明だが[注釈 2]1944年(昭和19年)に入って南方に進出し、ボーキサイトを搭載の上ヒ62船団に加入[19]。5月23日に昭南(シンガポール)を出港し、マニラを経て6月8日に六連に到着した[20]三菱横浜造船所で修理のほか、機銃の増備や逆探の装備が行われ[21]、修理完了後は門司に回航され、ヒ71船団に加入する。8月10日、ヒ71船団は伊万里湾を出港し、馬公を経て南に下る。しかし、8月18日夜から8月19日未明にかけてアメリカ潜水艦「ブルーフィッシュ」、「ラッシャー」、「スペードフィッシュ」の攻撃を受け損害を出す。「ラッシャー」が最初の攻撃で空母大鷹」を撃沈し[22][23]、続く二度目と三度目の攻撃で海軍徴傭船「帝亜丸」(帝国船舶、元フランス船「アラミス」/日本郵船委託、17,537トン)を撃沈[22][24]。「能代丸」は警戒を厳重にしていたが、北緯18度10分 東経119度55分 / 北緯18.167度 東経119.917度 / 18.167; 119.917の地点にいたったところでラッシャーの四度目と五度目の攻撃を受ける[25][26]。「ラッシャー」は魚雷を計6本発射し、そのうちの1本が「能代丸」の二番船倉左舷側に命中[25]。相前後して海軍徴傭船「阿波丸」(日本郵船、11,249トン)の船首にも1本が命中し、ともに陸岸に近接してマニラに向かった[27]。損傷により4ノットから5ノット程度の速力しか出せなくなった「能代丸」はルソン島沿岸の泊地に立ち寄りながら南下を続け、8月24日にマニラに到着した[28]

沈没

「マニラ」に到着後、能代丸は応急修理を行い、9月17日ごろには概ね完成して日本本土行きの船団を待っている状況だった[29][30]。ところが9月21日、アメリカ第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)からの艦載機群がマニラを空襲し、「能代丸」の艦橋付近に至近弾を、艦橋部に命中弾を与えた[29]。間もなく別の一弾が短艇甲板を貫通して機関室で爆発し、火災が発生[29]。火災は弾薬や油類のある区画に広がり、ここにいたって総員退船が令されて乗組員が脱出したのち、夜に入って大爆発が起こった[31]。火災は9月22日、23日と続いて船体中央部をほぼ全焼して船体外板も甚だしく損傷、9月24日に水深12メートルの海底へ艦尾から沈没していった[31][32]。沈没地点はマニラ港南防波堤南灯台の188度1,800メートル、北緯14度33分01秒 東経120度57分05秒 / 北緯14.55028度 東経120.95139度 / 14.55028; 120.95139の地点と記録されている[9][33]。「能代丸」は11月10日に除籍および解傭された[9]

艦長

  • 古川保 大佐:1941年7月1日 - 1941年8月20日[34]
  • 大塚幹 予備海軍大佐:1941年9月20日[35] - 1942年2月1日[36]
  • 佐伯孝二 大佐:1942年2月1日[37] - 1942年8月5日
監督官
  • 佐伯孝二 大佐:1942年8月5日 - 1943年6月29日
指揮官
  • 佐伯孝二 大佐:1943年6月29日 - 1943年7月8日
  • 林蓉齋 大佐:1943年7月8日[38] -

同型船

N型貨物船
  • 長良丸
  • 能登丸
  • 那古丸
  • 鳴門丸
  • 野島丸

脚注

注釈

  1. ^ 建造中の1934年(昭和9年)4月11日、名称を三菱重工業長崎造船所に変更。
  2. ^ 例えば、#郵船戦時上p.898 では、昭和18年7月21日の修理完了からヒ71船団加入にいたるまでの動向については全く書かれていない。

出典

  1. ^ 三菱重工業長崎造船所
  2. ^ a b c #創業百年の長崎造船所pp.550-551
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n #日本汽船名簿
  4. ^ Nagara_Maru_class
  5. ^ a b #山高p.240-241
  6. ^ #船舶改善助成施設実績調査表p.2,5
  7. ^ #大毎340807
  8. ^ #日本郵船株式会社百年史pp.325-326
  9. ^ a b c d e f g h #特設原簿p.116
  10. ^ a b c #正岡p.74
  11. ^ 戦史叢書第062巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、57、99-100ページ
  12. ^ 戦史叢書第46巻 海上護衛戦、146ページ
  13. ^ 戦史叢書第062巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、104ページ
  14. ^ #郵船戦時上pp.896-897
  15. ^ a b c d #郵船戦時上p.897
  16. ^ #SS-208, USS GRAYBACKp.237
  17. ^ #SS-208, USS GRAYBACKpp.237-238
  18. ^ #郵船戦時上pp.897-898
  19. ^ #能代丸1906p.38,41
  20. ^ #駒宮p.180
  21. ^ #能代丸1907p.47
  22. ^ a b #駒宮p.226
  23. ^ #SS-269, USS RASHER_Part1pp.291-293
  24. ^ #SS-269, USS RASHER_Part1pp.294-295
  25. ^ a b #能代丸戦闘詳報p.60
  26. ^ #SS-269, USS RASHER_Part1p.296
  27. ^ #駒宮pp.226-227
  28. ^ #能代丸戦闘詳報p.63,69
  29. ^ a b c #郵船戦時上p.898
  30. ^ #能代丸1909p.3
  31. ^ a b #郵船戦時上p.899
  32. ^ #能代丸1909p.5, pp.41-42
  33. ^ #能代丸1909pp.5-6, p.36
  34. ^ 『日本海軍史』第10巻、403頁。
  35. ^ 海軍辞令公報(部内限)第716号 昭和16年9月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 
  36. ^ 『日本海軍史』第9巻、163頁。
  37. ^ 海軍辞令公報(部内限)第805号 昭和17年2月2日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084200 
  38. ^ 海軍辞令公報(部内限)第1168号 昭和18年7月8日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100 

参考文献

外部リンク

座標: 北緯14度33分01秒 東経120度57分05秒 / 北緯14.55028度 東経120.95139度 / 14.55028; 120.95139




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「能代丸 (特設巡洋艦)」の関連用語

能代丸 (特設巡洋艦)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



能代丸 (特設巡洋艦)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの能代丸 (特設巡洋艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS