田村宗良 田村宗良の概要

田村宗良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/08 15:53 UTC 版)

 
田村宗良
時代 江戸時代前期
生誕 寛永14年4月19日1637年6月11日
死没 延宝6年3月26日1678年5月16日
改名 亀千代(幼名)、鈴木宗良、田村宗良
墓所 岩手県一関市の大慈山祥雲寺
官位 従五位下右京亮隠岐守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
陸奥岩沼藩
氏族 伊達氏鈴木氏田村氏
父母 父:伊達忠宗、母:三田村又右衛門の娘・ふさ
養父:鈴木重信
兄弟 鍋姫、虎千代丸、伊達光宗宗良伊達五郎吉伊達宗倫伊達綱宗伊達宗規伊達宗房、飯坂宗章
山口重如の娘・
建顕顕寛顕始顕普、宗常、永井直種正室ら
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田村 宗良(たむら むねよし)は、江戸時代前期の外様大名陸奥国岩沼藩の初代藩主。田村家27代当主。官位従五位下右京亮隠岐守

生涯

寛永14年(1637年4月19日陸奥仙台藩の第2代藩主・伊達忠宗の三男として誕生した[1]。寛永16年(1639年)、父の命で1,500石の仙台藩の重臣・鈴木元信の家系である鈴木家の名跡を継ぎ、志田郡大崎を治めた[1]慶安2年(1649年)に元服して鈴木宗良と名乗る。

承応 元年12月18日1653年1月17日)、忠宗の生母である田村家出身の陽徳院(祖父・政宗の正室、愛姫)の遺言により田村家を再興し、栗原郡岩ヶ崎に1万石を与えられる。万治3年(1660年)に仙台藩主に幼少の伊達綱村が就くと、綱村より2万石加増され、同年12月に従五位下、右京亮に叙任された。また、伊達宗勝と共に綱村の後見となった。寛文2年(1662年)、名取郡岩沼に転封され、内分分知大名として岩沼藩の初代藩主となった。和歌や書をなし、人柄は温和であり人望を集めたが、気弱な一面もあったため才気活発な宗勝による専横を許すことになった。寛文10年(1670年)に隠岐守に叙任される。

寛文11年(1671年)、伊達騒動(寛文事件)に際して指導的役割を果たすことが出来ず、江戸幕府の命令によって連座処分により閉門に処された。寛文12年(1672年)に罪を許された。

延宝6年(1678年3月26日に江戸で死去した。享年42。

系譜

父母

正室

  • 糸(貞岩院) - 山口重如(内記)の娘[2][3]

子女

脚注

  1. ^ a b 大島晃一『一関藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2006年10月、13頁。ISBN 4-7684-7106-4 
  2. ^ 父は仙台藩重臣。母方の祖父は古内重広。このため貞岩院も伊達晴宗久保姫岩城重隆の娘)の玄孫にあたる。
  3. ^ 貞岩院が宗良に嫁ぐことが決まったのは鈴木家養子(当主)時代とみられる。政宗重臣鈴木元信も貞岩院の父・重如(内記)も藩主から財務責任者を任され、同僚の家同士のふさわしい縁組であった。 これに加え田村家や宗良の将来を視野に入れても、貞岩院が政宗に滅ぼされなければ角田石川家留守氏(水沢伊達家)などと同様に仙台藩御一門にいたであろう戦国大名陸奥国分氏当主 国分盛重の子息・重広の孫娘であることは大きな決め手になったと考えられる。




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