王占元 王占元の概要

王占元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 14:36 UTC 版)

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王占元
プロフィール
出生: 1861年2月20日
咸豊11年正月11日)
死去: 1934年民国23年)9月14日[1]
中華民国(国民政府)天津市
出身地: 山東省東昌府館陶県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 王占元
簡体字 王占元
拼音 Wáng Zhànyuán
和名表記: おう せんげん
発音転記: ワン ヂェンユエン
ラテン字 Wang Chan-yüan
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事績

清末から辛亥革命まで

淮軍劉銘伝部隊の兵士から軍歴を開始し、1886年光緒12年)、天津武備学堂第1期で学んだ。1890年(光緒16年)に卒業する。宋慶の毅軍に加わり、日清戦争に参戦した。1895年(光緒21年)、天津小站で袁世凱新建陸軍に加わり、工程営隊官となった。1902年(光緒28年)、北洋常備軍歩兵隊第7営管帯となり、翌年、歩兵隊第1標統帯に昇進した。[2][3]

1904年(光緒30年)に袁世凱・鉄良が北洋陸軍6個鎮を編制すると、王占元は第2鎮歩兵隊第3協統領に昇進した。その後も順調に昇進し、1911年宣統3年)4月、陸軍協都統位を授与されている。同年10月、武昌起義が勃発すると、王の第3協は第1軍に編入され、馮国璋指揮下で革命軍鎮圧に従事した。11月末には、王の部隊は李純の部隊と協力して漢陽を革命軍から奪回する。この軍功により、王は第2鎮統制に昇進し、副都統銜を授与された。[2][3]

直隷派の中心人物に

1912年民国元年)、中華民国が成立すると、鎮は師に改められ、王占元率いる第2師は保定に駐屯した。1913年(民国2年)、二次革命(第二革命)が勃発すると、王は革命派の鎮圧に従事した。この軍功により、陸軍上将銜などを授与されている。1914年(民国3年)3月、豫南剿匪総司令を兼任して、白朗討伐に従事した。4月には湖北軍務幇弁となった。1915年(民国4年)、袁世凱の皇帝即位を支持し、10月、壮威将軍の位を授与された。12月、袁の皇帝即位とともに、王は一等侯に封じられている。同月、護国戦争第三革命)が勃発すると、王は襄武将軍督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)に任命された。[4][3]

袁世凱が1916年(民国5年)6月に死去すると、翌7月に王は湖北督軍兼民政長に任命された。府院の争いでは国務総理段祺瑞を支持し、他省の督軍たちと国会の解散を要求するなど、総統黎元洪に圧力をかけた。しかし、馮国璋率いる直隷派と段率いる安徽派の争いでは、王は直隷派の重要人物となる。護法戦争を起こした南方政府への対応をめぐって、「武力統一」を唱える段に対抗し、「和平統一」を唱える馮を補佐した。[5][3]

段祺瑞が湖南省に南方政府討伐軍を派兵しようとすると、王占元は、江蘇督軍李純、江西督軍陳光遠と共にこれを阻止する姿勢をみせる。結局、段は湖南征伐を断念した。これ以降、李・王・陳の3督軍は、「長江三督」として国政で注目を受けるようになる。1919年(民国8年)12月に馮国璋が病没すると、曹錕が直隷派の指導者となった。王は引き続き、その有力支持者となる。1920年(民国9年)6月、王は両湖巡閲使に任命された。翌月の安直戦争では、安徽派の長江上游総司令呉光新を逮捕して、その軍を没収している。これにより王の勢威は拡大された。[6][3]

湖北統治の失敗、その後

晩年の王占元

しかし、王占元の湖北統治は苛酷で、省内の各階層から不評であった。また、部下の兵士たちも給料遅配等から繰り返し反乱を起こし、湖北社会を混乱に陥れている。その結果、1921年(民国10年)6月、湘軍(湖南軍)の趙恒惕と連合した湖北省有力者の蒋作賓孔庚中国語版李書城らが、倒王運動を開始した(湘鄂戦争)。8月5日通城を奪われた王は曹錕と呉佩孚に救援を求めた。しかし、曹らは王を見捨て(援鄂不援王)、河南省駐屯の蕭耀南の第25師および靳雲鶚の第8混成旅を湖北省に介入。抵抗し得なかった王は、翌日下野を表明して天津に逃亡した[7][3][8]

これ以降も、王占元は直隷派の一員として活動を続けた。しかし、湖北統治の失敗により軍事的・政治的力量は大きく損なわれ、国政への影響は限定的なものでしかなかった。1926年(民国15年)9月、五省聯軍司令孫伝芳の檄に応じ、王は訓練総監に任命され、中国国民党北伐を阻止しようとする。また、1928年(民国17年)4月、王は張作霖から陸軍検閲使に任命された。しかし、それからまもなく、北京政府は北伐軍により倒されてしまった。[9][3]

国民政府時代になると、王占元は実業界に転進した。王は、それまで貯蓄していた莫大な資産を不動産、各種工場、銀号(銀行)などに投資して、大きな利益を上げている。1934年(民国23年)9月14日、天津にて死去。享年74(満73歳)。[10][3]


  1. ^ 『民国人物小伝 第5冊』伝記文学出版社は、1930年4月としている。本記事は多数説をとる。
  2. ^ a b 張(1980)、211頁。
  3. ^ a b c d e f g h 徐主編(2007)、82頁。
  4. ^ 張(1980)、211-212頁。
  5. ^ 張(1980)、212-213頁。
  6. ^ 張(1980)、213頁。
  7. ^ 張(1980)、213-214頁。
  8. ^ 田子渝 劉徳軍 (1989). 中国近代軍閥史詞典. 档案出版. p. 545 
  9. ^ 張(1980)、214-215頁。
  10. ^ 張(1980)、215頁。


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