玉島地域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 09:07 UTC 版)
概要
当地の中心部は、江戸時代より物資の集散地として栄えた玉島港の港町で、備中松山藩や岡山藩等の外港としての機能を備えていた。現代になり、新たに当地東南部の乙島地区に水島港玉島地区が造成され、南の瀬戸内海沖合へと拡大し、貿易港になっている。その周囲は水島工業地帯の一部をなし、事業所・工場が多数立地する。
中部は、近世に干拓によって造成された平坦な平野で、東西方向に山陽新幹線と国道2号玉島バイパスが走っている。また、山陽自動車道が通る北部の丘陵地は岡山県内有数の果樹栽培の盛んな地域で、白桃などのモモ類、マスカット・オブ・アレキサンドリアやピオーネなどのブドウ類の産地である。
西部の黒崎地区は、水産業・水産加工業、およびハエ取りリボンなどの産業が盛んであり、また沙美海岸があり海水浴場が設置されている。
その他、当地全域における古くからの産業として、酒造業・繊維産業・麦稈真田製造・除虫菊栽培などがあり、沿岸部においては養殖・漁業などがある。
地勢
河川
隣接する地域・町
歴史
年表
- 1183年(寿永2年) - 乙島・柏島で源平合戦(治承・寿永の乱)・水島の戦いがおきる。
- 1550年(天文19年) - 乙島の玉島湊と松山(高梁市)間で高瀬舟による物資の輸送が始まる。
- 1624年(寛永元年) - 岡山藩により、七島や道越の新田開発がはじまる。
- 1642年(寛永19年) - 水谷氏が備中松山藩藩主になり玉島東南部を支配に収め、長尾・船穂・玉島などの新田開発を始める。
- 1670年(寛文10年) - 阿賀崎新田が完成。その後、港の整備と街の形成が進み北前船の寄港地になる。
- 1693年(元禄6年) - 3代水谷勝美死去により水谷氏が断絶。領地の多くが幕府に接収される。
- 1779年(安永8年) - 良寛和尚が円通寺で修行を始める。
- 1871年(明治4年) - 廃藩置県により深津県(1872年に小田県に改称、1875年に岡山県と合併)に含まれた。
- 1878年(明治11年) - 浅口郡役所が設置される。
- 1882年(明治15年) - 沙美に日本最初の海水浴場が開場。
- 1891年(明治24年) - 7月14日 浅口郡長尾村爪崎(現在の玉島爪崎)に、山陽鉄道玉島駅が開業。
- 1953年(昭和28年) - 浅口郡長尾町を編入合併。
- 1960年(昭和35年) - 玉島港が水島港に併合され、重要港湾に指定。
- 1975年(昭和50年) - 3月10日 山陽新幹線が開通、玉島駅に乗入れると同時に新倉敷駅に改称。
- 1979年(昭和54年) - 3月 ニチイ(後に新倉敷サティ)とパオで構成される新倉敷ショッピングデパートが開業。
- 2004年(平成16年) - 8月30日 台風16号[4]、 9月7日 台風18号[5] が相次いで上陸。沿岸部に甚大な高潮被害をもたらす。
経済
商業
中心市街地の商店街は郊外への人口流出と共に地盤沈下が著しく進み、かつてあったバスターミナルはスーパーの駐車場に変わるなど、都市機能の流出もその傾向に拍車をかけている。
商業集積は中心市街から社会資本整備の進む郊外へ移動傾向にあり、特に区画整理を終えた新倉敷駅前の発展は目覚しく、商業と人口の集積が急速に進んでいる。
中心市街地の商店街周辺は港町で栄えた往時の面影を残しており、倉敷市は町並み保存地区に指定し観光地への脱皮と活性化を試みている。
- 中心市街・商店街の町並み
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通町商店街
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通町商店街
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銀座商店街
農業
水産業
- 漁業
- 養殖業
- 水産加工業
- 練り物類
- アナジャコ
- 病院
- 玉島病院
- 玉島中央病院
- (医)賀新会玉島第一病院
- 水島協同病院玉島協同病院
- 玉島協同病院
- プライムホスピタル玉島
- ヤスハラ医院
- 当真内科医院
- 河野医院
- もりや小児科
- 守屋おさむクリニック
- (医)創生会渡辺胃腸外科病院
- タナベ内科医院
- 岡田正道歯科医院
- ナディア動物クリニック・動物眼科
- 鳥越歯科クリニック
- 藤沢脳神経外科
- 石田歯科医院
工業
- 鉄鋼・重化学
- 水島臨海工業地帯E地区
伝統工芸・地場産業
- 玉島だるま
- 醸造業
- 日本酒
- 醤油
- 酢
- 繊維産業
- 手袋・軍手
- 足袋
- ハエ取りリボン
- 麦稈真田
名物料理・郷土料理
- 玉島おでん
- しのうどん
- アナジャコ料理
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