江戸の火事 町人の火事対策

江戸の火事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 18:00 UTC 版)

町人の火事対策

むさしあぶみ』より。明暦の大火の折、車輪付きの長持、「車長持」に荷物を満載して避難する人々。車長持の渋滞が避難を妨げ被害を大きくしたため、後に三都で車長持の製造が禁止された

宵越しの銭は持たない」という言葉で江戸っ子な性質が表現されるが、この行動様式には、火事で燃えてしまうよりは金離れよく使ってしまう方がいいという、頻発する江戸の火事に対する一面もあった[37]。江戸に住む町人にとって、火事は日常の出来事であり、類焼するのは仕方がないと考えられていた。そのため、自宅や商店が火事に襲われることを前提とし、迅速な避難や財産の保全を目的とした火事対策が行なわれるようになる。一方で、自宅からだけは出火しないようにと、細心の注意が払われた。

火事への備え

江戸の火事は昼夜をとわず発生し、就寝中に火事に襲われた場合は、着替えや明かりの準備などで避難に手間取るおそれがあった。対策として、冬が近づき火事の季節になると、就寝前に枕元へ衣服・わらじ提灯などを用意しておくという用心が行なわれていた。火事の知らせを受けると、まず火元と風向きの確認を行なう。危険と判断すれば、持ち出せない貴重品を土蔵穴蔵に入れ、得意先を見回ったり延焼防止のため屋根に登って火の粉を払ったりする。いよいよ危なくなると、持ち出せる貴重品だけを携えて避難した。

貴重品の焼失を防ぐためには、用慎籠(ようじんかご)が準備された。用慎籠は大型の竹籠で、背負うものと、より大型でかつぐものとがあった。火事が発生し危険になると、貴重品を用慎籠にいれ、持ち出して避難した[38]。また、貴重な文書などを入れて持ち出すための持退き葛籠(もちのきつづら)も使用された。用慎籠より多くの荷物を運び出せる道具として大八車や車長持があったが、その大きさが避難の障害になることや、避難中に放置されたものが飛び火による延焼被害を拡大する例があり、幕府によって規制されている。

裕福な商家では、普段から家1軒分の資材を材木屋に預けておくことも行なわれた。火事で焼け出されると、焼け跡を片付けて預けた資材を運ばせ、直ちに再建に取り掛かることで、短期間での商売再開を可能としていた[39]

土蔵・穴蔵

川越市に現存する蔵造りの商家

土蔵や穴蔵は、避難の際に持ち出せないものを焼失から守るために使用され、裕福な商家では複数の土蔵や穴蔵を所有していた。土蔵は高価なため主に商人が建築して使用したが、比較して費用の安い穴蔵は庶民の間でも使用された。

土蔵は建物の外壁を厚い土壁とし、漆喰などで仕上げた倉庫である。屋根には主に瓦葺が使用された。土壁の厚さによって火を防ぎ、内部の品を守ることが出来るため、商品・家財道具・貴重品などの保管用として設けられた。しかし、土蔵の造りや日頃の手入れが悪いと、窓や入口の隙間・ねずみ穴などから火の侵入を許し、焼け落ちることもあった。裕福な商家では対策として、普段から目張り用の土(用心土)を使用できる状態で準備しておき、火事の際には出入りの左官が駆けつけて隙間の目張りを行なうよう手配していた。ただし、自らが火元となってしまった場合には、あえて土蔵の扉を開いて延焼させ、世間に対する罪滅ぼしとすることもあった[注釈 30]。土蔵の一種として、極めて火事に強い文庫蔵(ぶんこぐら)という構造もあり、大火の後でも文庫蔵だけは焼け残るほどであったが、建築費が通常の数倍もするためあまり普及しなかった。一方、見世蔵といって、店舗や住居そのものを蔵造りにする例もある。しかし店舗建築には大きな開口部が必要とされるため、防火性に関してはある程度の妥協が見られる。この様式で立てられた商家は埼玉県川越市千葉県香取市佐原地区、栃木県栃木市などに多く現存しており、これらの市はその街並みから小江戸とも呼ばれている。

穴蔵は地面に穴を掘って設けられた、地下倉庫である。床下収納のような小規模なものではなく、人が入れる大きさであり、貴重品などの保管用として造られた。土蔵に比べて建築費用が安く、火の侵入口も蓋(天井)1箇所のみと強いため、火事対策・盗難対策として効果を発揮した。江戸での穴蔵は、明暦2年(1656年)に日本橋の和泉屋という呉服商人が設けたことをはじまりとする説がある。明暦の大火で和泉屋の穴蔵の有用性が知られるようになり、普及の契機となった[注釈 31]。穴蔵は江戸中で造られるようになり、川越の塩商人による『三子より之覚』では、江戸の10分の1が穴になったという記述が残っている[41]。江戸での穴蔵は、地下水位が高いため水漏れ対策として主にヒバ材で作られ、穴蔵大工という専門職も存在した。地下の湿気の多さにより、耐久性が低くなる点が問題であった。


注釈

  1. ^ 西山松之助により、「江戸町人総論」の中で江戸の都市的特色の1つとして、「男性都市」「火災都市」「強制移転の町」と規定された[1]
  2. ^ 祝融と回禄は古代中国の火神の名である[3]
  3. ^ 回数は魚谷増男の研究による[4]
  4. ^ 回数は吉原健一郎の研究による[5]
  5. ^ 大火については『江戸の火事』『東京災害史』「江戸災害年表」などによる。
  6. ^ お七の一家がこの火事で焼け出され、避難場所となった寺で見初めた寺男に対する生娘の恋心から、また大火事で焼け出されれば男に会えると後日自ら放火に及んだ(この放火による火事はぼやで消し止められたとされる)ことからこの通称がついた。この大火の原因がお七の放火にあるのではない。
  7. ^ 通称・別称は、上野寛永寺根本中堂に掲げる東山天皇勅額が江戸に到着した日に発生したため。
  8. ^ 通称は、火元に牛車の運送を扱うものが住んでいたため。
  9. ^ 神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどだった。
  10. ^ 『』内の文章には、『火災都市江戸の実体』 pp.85 - 90の記述から三条件の文章を引用した。
  11. ^ 幕府の調査による享保6年の町方人口50万に、武家人口の推定である50-70万とその他(出家者・山伏・吉原関連など)の人口を考慮した推定値[14]
  12. ^ 内藤昌の研究によれば、明治2年(1869年)の時点で江戸の総面積に占める割合は、武家地68.58%、寺社地15.61%、町人地15.81%であった[14]
  13. ^ 江戸時代後期に編纂された『徳川実紀』では、使用例がない時代の記述も「火賊」の表記で統一している[15]
  14. ^ 東京市史稿』による。この2年間が突出して多く、捕らえられた102人には無実のものが含まれていた可能性も高い[16]
  15. ^ 天和3年(1683年)正月の放火で捕らえられた「はる」という下女の供述。火焙りとなった。『御仕置裁許帳』によれば『(前略)到検議候処ニ、眞木之燃杭を持、雪隠え火を付申候、同類も無之、主え意恨有之候て付候にても無之、物取候ニても無候、不斗火付申所存、付候由申ニ付、籠舎、右之者、亥二月九日於浅草火罪』とある[17]
  16. ^ 消火活動の際、本来なら焼けるはずのない場所へ、火をまわして火事を拡大する行為をさす。
  17. ^ 1月の平均湿度は、東京49%であり、日本海側の金沢75%は措くとしても、三都の京都66%、大阪61%と比較しても、著しく低い。強い北西季節風(伊吹おろし)で有名な名古屋64%と比較しても、低いことが分かる[19]
  18. ^ のちに定火消は10組の編成となり、江戸城北西以外にも配置されていく。
  19. ^ 現在では春一番と呼ばれることもある、春先の強い南風・南西風は、江戸時代の江戸では、むしろ気象学的に的を射て「富士南風」と呼ばれた。この富士南風も、大火の原因の一つとされている[20]
  20. ^ 原因として、江戸時代初期にはまだ戦国時代の遺風が強かったことがあげられる[23]
  21. ^ 「消防組織」節以下に含まれる記述は、「江戸火消制度の成立と展開」『江戸の火事』『江戸の火事と火消』などを参考としているが、ページ表記などの脚注は省略した。より詳しい記述のある火消の項目を参照。
  22. ^ 戸田茂睡の『御当代記』に、中山勘解由による取り締まりでは多くの無実のものが自白させられたと記され、当時から冤罪の多さが知られていた[24]
  23. ^ 町触が出されるまでは、街路両側の建物から庇が京間1間(約1.97m)ずつ突き出ている例もあった[29]
  24. ^ 明暦の大火以前にも、慶安2年(1649年)の地震後に、家屋が倒壊したのは屋根が瓦葺で重いためであるとして、禁止されたことがある[31]
  25. ^ 屋根に牡蠣貝殻を敷き並べたもの。飛び火を防ぐ効果があった。
  26. ^ 自宅に浴室を設置すれば熱源が増え、それだけ失火の危険性が高まる。世間からも火元と疑われるため、避けられていた[33]
  27. ^ ただし、暮六つ以降でも湯が冷めるまでの間は入浴が認められていた[34]
  28. ^ この凧が江戸城への放火を狙ったものだったのかは不明である[35]
  29. ^ 火事場にいてよいのは、火消と親類家中のみと定められていた。明暦の大火後には、制止を聞かないものは斬り捨てて構わないとされている[36]
  30. ^ 『絵本江戸風俗往来』の記述による[39]
  31. ^ 加藤曳尾庵『我衣』による。喜多村信節『嬉遊笑覧』では否定されている[40]
  32. ^ 『地方凡例録』による[42]
  33. ^ 押込日数の差は焼失面積による。小間10間以内の火事であれば、火元以外が焼失しても罪にはならなかった[44]
  34. ^ 罰せられたのは、町火消設置令で火事への駆けつけが義務付けられている範囲の月行事。火事の拡大に対する罰であった。
  35. ^ なかでも明暦の大火後には、1升が40文から1000文に、1升が3文から2400文になったという記録が残されている[45]
  36. ^ 当時の将軍徳川家綱が受け取った、家康以来の遺産は423万両であったとされる[47]

出典

  1. ^ 「江戸町人総論」P.5-P.20
  2. ^ 「火災都市江戸の実体」P.84
  3. ^ a b 『江戸学事典』P.572
  4. ^ 『江戸の火事』P.3
  5. ^ 『江戸の火事』P.4
  6. ^ 『江戸三火消図鑑』P.198
  7. ^ a b 東京市(編)『東京市史稿 変災篇』第4巻、東京市刊、大正6(1917)年、p.65
  8. ^ a b コトバンク「桶町の大火」2024年1月20日閲覧
  9. ^ 『東京災害史』P.33
  10. ^ a b 村田あが「江戸時代の都市防災に関する考察(1)」『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要』第15号、跡見学園女子大学、2013年3月、87-110頁、ISSN 1348-1118NAID 110009579146  p.104 より
  11. ^ 山本博文『見る、読む、調べる 江戸時代年表』小学館、2007年10月6日、120頁。ISBN 9784096266069 
  12. ^ 『東京災害史』P.54、「江戸災害年表」P.439
  13. ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 p.221.
  14. ^ a b 『江戸の火事』P.18
  15. ^ 「火災都市江戸の実体」P.16
  16. ^ 「火災都市江戸の実体」P.28
  17. ^ 『江戸の放火』P.283より引用
  18. ^ 『江戸の放火』P.63
  19. ^ 気象庁1981-2000年統計
  20. ^ 「江戸災害年表」P.440
  21. ^ 『江戸の火事』P.14
  22. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.164
  23. ^ 「火災都市江戸の実体」P.15
  24. ^ 「火災都市江戸の実体」P.22
  25. ^ 『江戸の火事と火消』P.247
  26. ^ 「火災都市江戸の実体」P.18
  27. ^ 『江戸の放火』P.146
  28. ^ 『江戸の火事』P.201
  29. ^ 『江戸の火事』P.195
  30. ^ 『江戸の火事』P.209
  31. ^ 『江戸の火事と火消』P.210
  32. ^ 『江戸の火事』P.197
  33. ^ 「江戸町人総論」P.16
  34. ^ 『江戸の火事』P.137
  35. ^ 『江戸の放火』P.29
  36. ^ 『江戸の火事と火消』P.167
  37. ^ 『江戸の火事と火消』P.12
  38. ^ 『江戸の火事と火消』P.144
  39. ^ a b 『江戸の火事と火消』P.16
  40. ^ 『災害都市江戸と地下室』P.17
  41. ^ 『江戸の火事』P.198
  42. ^ 『江戸の火事と火消』P.261
  43. ^ 『江戸の火事と火消』P.226
  44. ^ 『江戸の火事』P.130
  45. ^ 『江戸の火事』P.167
  46. ^ 『江戸の放火』P.14
  47. ^ 『江戸の放火』P.18






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