武則天
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 05:58 UTC 版)
参考文献
- 『則天武后:女性と権力』(外山軍治著、中公新書、初版1966年〈昭和41年〉)ISBN 4121000994
- 『武則天』(原百代著、毎日新聞社 新版上中下、1998年〈平成10年〉)
- 『敦煌吐魯番文書与唐史研究』(李錦繍著、2006年)
- 『則天武后』(氣賀澤保規著、講談社学術文庫、2016年。原本は白帝社、1995年刊行)
- 『キュロテ 世界の偉大な15人の女性たち』訳:関澄かおる、DU BOOKS、2017年10月、ISBN 978-4-86647-018-4
登場作品
『』は日本公開、「」は日本未公開の作品。
小説
- 林語堂『則天武后』(小沼丹訳 みすず書房、初版1959年)
- 原百代『武則天』(私家版、1978年。毎日新聞社全5巻 新版全3巻 講談社文庫全8巻)
- 津本陽『則天武后』(上・下、幻冬舎のち幻冬舎文庫)
- 森福都『双子幻綺行』(2001年2月 祥伝社)
- 山颯(シャン・サ)著『女帝 わが名は則天武后』(吉田良子訳 草思社、2006年〈平成18年〉 ISBN 4794215037)
- 塚本靑史『則天武后』上下(日本経済新聞出版社、2018年12月20日 ISBN 978-4532171506 / ISBN 978-4532171513)
戯曲
映画
- 「武則天」(1963年、香港) 演:李麗華
- 『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』(原題「狄仁傑之通天帝國」、2010年、中国・香港) 演:カリーナ・ラウ
- 『ライズ・オブ・シードラゴン 謎の鉄の爪』(原題「狄仁杰之神都龍王」、2013年、中国・香港) 演:カリーナ・ラウ
- 『王朝の陰謀 闇の四天王と黄金のドラゴン』(原題「狄仁杰之四大天王」、2018年、中国) 演:カリーナ・ラウ
テレビドラマ
- 『則天武后』(原題「武則天」、1995年)演:リウ・シャオチン
- 「至尊紅顔」(2003年)演:アリッサ・チア
- 『武則天 秘史』(原題「武則天秘史」、2011年)演:イン・タオ、リウ・シャオチン、スーチン・ガオワー
- 『則天武后〜美しき謀りの妃〜』(原題「唐宮美人天下」、2011年)演:チャン・ティン
- 『二人の王女』(原題「太平公主秘史」、2012年)演:リー・シャン
- 『謀りの後宮』(原題「唐宮燕」、2013年)演:クララ・ワイ
- 『武則天 -The Empress-』(原題「武媚娘傳奇」、2015年)演:ファン・ビンビン
- 『風起花抄~宮廷に咲く琉璃色の恋~』(原題「風起霓裳」、2021年)演:シー・シー
漫画
関連項目
- 武韋の禍
- 金星 - 「武照」と命名されたクレーターがある。
- ギボウシ(ホスタ) - 「エンプレス・ウー」と命名された園芸品種がある。
- 遣唐使 - 武周時代の来航がある。
- 孝謙天皇(称徳天皇) - 在位中に日本史上で唯一4文字年号を定めたが(淳仁期も含む)、これは武則天の例に倣ったとする指摘がある(「孝謙天皇#在位中の元号」参照)。
注釈
- ^ 一例として、台湾ドラマ『一代女皇』と大陸ドラマ『武則天』の題名の対比が挙げられる。
- ^ その他の名前としては、唐の第2代皇帝太宗に「媚」と名付けられ、第3代皇帝高宗には「昭儀」と号された他、自ら尊号「天后」を受けた。武周建国以降は、聖母神皇、聖神皇帝、則天大聖皇帝、金輪聖神皇帝、越古金輪聖神皇帝、慈氏越古金輪聖神皇帝、天冊金輪聖神皇帝などがある。
- ^ 李勣は他の朝臣が下問を受けた会議には欠席していた。後に高宗が皇后廃立について直々に下問したところ、李勣は「これは陛下の家庭のことです。なぜ余所の人間(である私)にお聞きになるのですか」と答えたという。
- ^ 後世の史家は、この李勣の返答で武照の専横が止められなくなったと非難するが、後に長孫無忌と褚遂良が武則天によって死に追いやられ、沈黙した于志寧も左遷されたことを考えると、李勣が武照の計算高さと残忍さを見抜いて戦略的な判断を行った可能性もあり、一概に非難することは難しいであろう。
- ^ 王皇后への嫌疑は武照の娘を毒殺したとの内容であったが、現在では、武照の娘は王皇后を陥れるために武照自身によって殺害されたのではないかと疑う者も多い。
- ^ このとき武照は2人が二度と生き返らないように、四肢を切断した上で「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込んだため、王氏と蕭氏は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後に絶命したという。
- ^ 処刑後、遺族の姓を侮蔑的な意味を込めた字である「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)と「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされていた)に改称させた。
- ^ 蕭氏は死の間際に、武照が生まれ変わったら鼠になれ、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやる、と呪いながら死んだといわれ、後年の武照は祟りを恐れ、宮中で猫を飼うのを禁じたといわれる。
- ^ 唐初は隋と同じく宮廷内の政治は貴族政治が行われており、関隴貴族集団と呼ばれる貴族層が権力を握っていた。隋代から科挙は行われていたが、この頃は科挙官僚は低い役職にしか登用されず、科挙による人材登用と国政運営には限界があった。良くも悪くも、この科挙制度の改革以後は、貴族といえども科挙を通過して登用される道を「正途」とした。
- ^ この時期の事件として、高宗が晩年病を得た際に鍼治療を望んだが、武照がそれを知ると治療を中止させた、という逸話を『唐書』が伝える。
- ^ ただし、帝位簒奪をいつの時点で企図したのかは研究者の間でも定説がない。
- ^ これは後に日本の国分寺制度の元になった。また、洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17メートルの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。
- ^ 武則天は狄仁傑のことを国老と呼んで敬意を払い、彼が700年に死去した際は、「なぜ天は私から国老を奪ったのか」と嘆き悲しんだという。
出典
- ^ 『唐会要』
- ^ 世界大百科事典内言及. “天后(称号)(てんこう)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年4月7日閲覧。
- ^ 金子修一「玄宗の祭祀と則天武后」古瀬奈津子 編『東アジアの礼・儀式と支配構造』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-04628-2
- ^ 倉科遼; みね武. “武則天 ~世界女帝列伝”. ビーグリー. 2023年11月13日閲覧。
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