武韋の禍とは? わかりやすく解説

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ぶい‐の‐か〔ブヰ‐クワ〕【武×韋の禍】


武韋の禍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/11 14:25 UTC 版)

武韋の禍(ぶいのか)は、高宗の死後、その皇后で後に帝位に即いて周を建てた武則天(則天武后)と、武則天の子でその後を継いだ中宗の皇后の韋皇后による簒奪の計画、およびそれにより起こった政治の混乱の総称。その後の玄宗開元の治によって収束を迎え、唐は安定を迎えた。

参考文献

  • 全国歴史教育研究協議会編『世界史B用語集 改訂版』山川出版社 2008年
  • 尾形勇ほか12名編『世界史B』東京書籍 2010年

武韋の禍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:50 UTC 版)

太平公主」の記事における「武韋の禍」の解説

その後宰相張柬之により武則天退位し天下唐王朝復するが、張兄弟組んでいた従兄弟武三思張柬之失脚させ、安楽公主中宗韋皇后の娘)と結び、710年不倫暴露恐れた安楽公主韋后組んで中宗毒殺した。「第二武則天」となるべく韋后が温王李重茂殤帝)を擁立して傀儡としたのを危ぶみ、甥の李隆基(後の玄宗)と謀り韋后安楽公主とその一族ことごとく誅殺して、李隆基の父の相王李旦睿宗)を即位させた。ここに皇妹として太平公主権勢頂点達し万戸の封を与えられ所生男子3人もそれぞれ王に封ぜられ、一族高位高官占めた一方宰相姚崇張説左遷させるなど専権極めるが、これらのことにより、次第皇太子李隆基対立深めていくこととなる。

※この「武韋の禍」の解説は、「太平公主」の解説の一部です。
「武韋の禍」を含む「太平公主」の記事については、「太平公主」の概要を参照ください。

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