武韋の禍
武韋の禍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:50 UTC 版)
その後、宰相の張柬之により武則天は退位し、天下は唐王朝に復するが、張兄弟と組んでいた従兄弟の武三思が張柬之を失脚させ、安楽公主(中宗と韋皇后の娘)と結び、710年、不倫の暴露を恐れた安楽公主が韋后と組んで中宗を毒殺した。「第二の武則天」となるべく韋后が温王李重茂(殤帝)を擁立して傀儡としたのを危ぶみ、甥の李隆基(後の玄宗)と謀り、韋后・安楽公主とその一族をことごとく誅殺して、李隆基の父の相王李旦(睿宗)を即位させた。ここに皇妹として太平公主の権勢は頂点に達し、万戸の封を与えられ、所生の男子3人もそれぞれ王に封ぜられ、一族も高位高官を占めた。一方、宰相の姚崇・張説を左遷させるなど専権を極めるが、これらのことにより、次第に皇太子の李隆基と対立を深めていくこととなる。
※この「武韋の禍」の解説は、「太平公主」の解説の一部です。
「武韋の禍」を含む「太平公主」の記事については、「太平公主」の概要を参照ください。
武韋の禍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:09 UTC 版)
睿宗の三男として洛陽で生まれる。母は徳妃竇氏。隆基には祖母となる武則天が女性皇帝として君臨する武周時代であった。はじめは伯父である皇太子の李弘の猶子となっていた。 705年、20歳のとき、武則天は中宗に禅譲するかたちで帝位を奪われ、武周は一代で消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主や、武則天の実家である武氏の一族の勢力が残存していた。 中宗の皇后である韋皇后は、武則天をまねて政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋皇后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。 これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して慎重に韋皇后排除を計画、710年に計画が実行され、韋皇后はじめ韋氏一族やその与党を粛清した。ここで武則天によりいったん廃位されていた睿宗が重祚し、隆基はこのときの功績により皇太子に立てられた。 睿宗が武周以前に在位していたときには、隆基の長兄の李憲(成器)が皇太子に立てられたが、李憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった。隆基は即位後も兄に対しては常に敬意を払い、臣下に「やりすぎだ」と批判されたほどであった。その死後には皇帝の位を追贈し「譲」と諡した。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのち、ついに太平公主を殺害して実権を掌握したことで決着を見る。
※この「武韋の禍」の解説は、「玄宗 (唐)」の解説の一部です。
「武韋の禍」を含む「玄宗 (唐)」の記事については、「玄宗 (唐)」の概要を参照ください。
武韋の禍と同じ種類の言葉
- 武韋の禍のページへのリンク