東京大学総合図書館 現在の建物

東京大学総合図書館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/27 02:14 UTC 版)

現在の建物

本館

再建された東京帝大図書館

本館は、1925年(大正14年)7月1日に着工し、1928年(昭和3年)11月10日に竣工、同12月1日に開館した。鉄骨鉄筋コンクリート造で、正面に向かって左右の両翼は地上3階、中央部は地上4階、また一部地上5階、書庫部は地上6階建てで、地下1階を備える。

竣工時は附属図書館と呼ばれ、のちには中央図書館とも呼ばれていたが、1973年(昭和38年)の「東京大学附属図書館基本規則」制定によって現在見られるように「総合図書館」と呼ばれるようになった。後述の新館が建設されてからは、従来からあるこの建物を「本館」と呼ぶようになっている。本記事でも、基本的には「本館」と呼ぶ。

1923年(大正12年)の関東大震災以前には、現在の本館がある付近に木骨煉瓦造の図書館があったものの、震災に伴って本郷キャンパス構内で発生した火災が延焼し、この図書館は75万冊もの資料とともに焼失した。再建にあたっては、ジョン・ロックフェラー2世から400万円の寄付の申し出があり、これを基にして新たな図書館が建設されることとなった。この寄付はロックフェラー財団ではなく、ロックフェラー2世のポケットマネーとして支出されたものであり[110]、寄付金の用途(図書購入に使用するか、図書館新築費用に充てるか、など)やその他利用に関する諸問題は全て資金管理委員会に一任され、一切の条件を付けなかった。この申し出を受けて、委員長に古在由直(当時の総長)、設計部長に内田祥三、委員には姉崎正治(再建後には館長に就任)、山田三良(当時の法学部長)が加わって図書館建築委員会が結成され、内田祥三が主宰していた東京帝国大学営繕課の技師や、工学部建築教室の若手教官らが多く建築に携わった。

場所の選定にあたって、当初は正門から大講堂へ抜ける通りに面して、陳列館(工学部列品室)の向かい(現在の法学部3号館がある位置)に設置することが考えられていた。これは、当時の学内で教授らが収集してきたあらゆる貴重なコレクションが、十分に整理されない状態で廊下等に置かれていた状態を見た内田が、ミュージアムの必要性を痛切に認識し、自然科学系のミュージアム、文科的方面の図書館を正対させて配置する構想を持っていたためである。しかしこの構想は法学部からの強い反対により断念され、震災で焼失した旧図書館とほぼ同じ位置に建てられることとなった[111][112][113]

設計にあたっては、内田の弟子ら10人によって内輪のコンクールが行われた。日本建築学会が発行している『建築雑誌』の通巻471号(1925年1月)には「東京帝國大学圖書館建築圖案」として、内田によって画かれた平面案のほか、長谷部鋭吉堀口捨巳岸田日出刀野田俊彦渡邊仁吉田鐵郎の6人による外観デザインの草案が掲載されており、これが先のコンクールで出された案に当たるものと思われる。このコンペで一等をとったのは、図書館建築委員に建築部嘱託技師として名を連ねていた岸田の案であった。当時の岸田は表現派の流行、特にメンデルゾーンの影響を強く受けていたため、装飾を廃して水平を強調したデザインとして仕上がっていた(現存する建物としては南研究棟などに類似している)。しかし設計部長である内田はメンデルゾーンを好まなかったことから、このコンペで出された岸田案は採用されることがなく、結局は内田が自身で1/200の設計図を描き、現在の建物の基本案としている。

そのため、現在の本館の外観は、周囲の法文2号館や法学部3号館などと調和したものとなった。他の多くの内田祥三による建築と同様、本館は左右対称の造りとなっている。蔵書が増加した場合には、書庫を奥の方に拡張することが考えられていた[114]が、実際には戦後に総合学環、教育学部などに当たる建物が建てられることとなり、現在ではこれらの区画が「図書館団地」と総称されるようになっている[115]。設計にあたってコンペが行われたことは先述の通りであるが、基本設計を担当することとなった内田祥三と、初代館長となった姉崎正治との間でも論争が生じていた。立場としては、内田がキャンパス復興計画全体との整合性と図書館建物の完結性を主張し、一方の姉崎は図書館機能に沿った建築を主張していた。残された内田による1/200図面では、1、2階の階高が低いものと高いもの(実施案に近いもの)の2案が存在していたことが分かる。階高を高くした場合は大階段の長さが伸び、館内において階段が占める面積も大きくなるため、より多くの床面積を有効に活用するためには階高が低い方が良い。しかしながら、結局は内田が自案を押し切り、現在見るように1、2階の階高は高い形で実現された[116]

建築の細部にはゴシック様式の意匠が取り入れられ、外装には茶褐色のスクラッチタイルが用いられることで、意匠的にはいわゆる典型的な内田ゴシックの様相を示す建物として完成している。正面のファサードは、バットレス風の付柱やスクラッチタイルの外装など、基本的な造作は内田ゴシックの基本形に沿ったものとなっているが、各付柱に挟まれた壁面が三面に折られて出窓状(台形状)にせり出している点は、他の内田ゴシックには見られない特徴的な形態となっていて、しばしば書架に並べられた本の背のようであると評されるものである[117][118]。この内正面中央部の壁面は、スクラッチタイル張りではなく、人造大理石塗りとなっている。当初はポーチ部分と同じく日出石を張ることになっていたが、地震の際における安全性を考慮して、構造上より適切である人造石塗りとしたものである。ただ完成すると思いの外面積が広く、色が薄かったため、内田は石を張った方がよかったと顧みている[119]

なお、岸田はコンペで一等を取った自案が建築として実現されることはなかったものの、図書館建築の施設、設備を調査するための海外出張を行っていて、この調査の結果は設計に反映されたという。ほかにも、電気設備に関しては大山松次郎、暖房・機械設備では丹羽重光、造園では田村剛の助言を得ている[120]。また、工事にあたっては、主な相手として以下の各社と請負契約を行った[121]

図書館建設費用で造られた広場脇のパビリオン。東西に造られたが東側のみ現存。

図書館建設の予算では前庭の整備も行われ、広場にはピンコロの花崗石青海波状に並べられた石畳が敷かれた(改修によって失われている、同様のものは大講堂前などに現存する)ほか、噴水パビリオンなども設けられた。噴水は岸田日出刀がデザインしたもので、五重塔の頂部に当たる九輪薬師寺などのもの)を参考にした日本風のものになっている[110]。パビリオンは広場の左右に設けられたが、三四郎池に面する東側のものは文学部3号館建設時に解体された。西側のものは現存し、上部にはが茂っている。現存する西側のパビリオンには井戸が設けられていて、ここから汲み上げられた水が地下水槽に貯水され、非常時に外部水道に依らず水を使用できるように工夫されていた。平時には図書館内の空気清浄に使われて、その排水は三四郎池の一角に設けられた滝から流される仕組みになっていた[122][113]

建物正面のポーチは半円アーチが9つ並んだものであり、医学部本館などに類似したものとなっているが、アーチ間各柱の上部に8枚のレリーフが設置されているのは他の建物で見られない特徴である。これらのレリーフは新海竹蔵によって造られたものである[115]が、竣工式が行われた1928年12月ごろの写真には写っていない[123]。竣工から約2年後、1930年の暑中休暇中に足場をかけて取り付けたものだという[124]。最も内田による図面では、このレリーフの外形に相当する長方形が描かれていることからも分かるように、設計時点でレリーフの設置は設計時点で予定されていたものである[125]。内田本人から新海竹蔵に対しては玄(獅子)、和(の枝)、生(若芽)、慈(母子もしくは)、實(燈明)、義(天秤)、序(砂時計)、力()のテーマが提示され、レリーフの製作が依頼された。ただ、新海が彫刻の題材として人工物よりも自然物を好んでいたことから、一部は半ばこじつけによってモチーフの変更が提案された。たとえば「實」は植物の実として捉え、の実とすることが提案され、内田と岸田は概ね了承していたが、姉崎が強く反発したため却下された。実現したレリーフは、現在の並びに沿って右から順に、玄(龍)、慈(羊)、和(藤)、生(若芽と小鳥)、實(燈明)、義(常緑樹で霜雪にも耐えることになぞらえ、)、序(苺、経緯不明)、力(獅子)となっている[124][126]。これらのレリーフのうち2枚、義と慈については、1930年の再興第17回院展に出展されている[115]

館内は記念性を持たせることを念頭に設計され、入口正面の大階段や記念室はその象徴となっているほか、他の室にも彫刻作品等が多く配されるなど、豪華な造りとなっている。内田は図書館の設計について、「気風というような一種の記念性を持っているものだから、これがロックフェラーが寄付したんだと説明する場合にも相当堂々たるものであることがいいだろう」[110]との考えのもとに、「階段室、廣間、記念室、一般閲覧室には可なりの費用を投ずる」[120]こととしたと話す。その他の室は堅実質素を旨として造ったものの、設備に関しては惜しむことなく費用を投じ、最新式のものを各所に採用している[120]

創建以降に行われた主要な改修工事としては、岸本館長下に行われた工事、裏田館長による計画の下行われた工事、2010年代に耐震改修、新図書館設置に合わせて行われた工事の3つが挙げられる。これらの改修工事では、館内の全体を改善することを目的として各室の機能が大幅に変更され、それに伴って壁の位置の変更や吹き抜け等の閉塞による増床などの構造的な変更も行われている。なお、2010年代の工事に関しては、建築研究者の野城智也と建築家の川添善行が設計監修を行なった。

館内の主要な各室については、以下で個別に記述する。

大階段

正面玄関付近から見た大階段
内田祥三が特に記念性を持たせて設計した空間の一つ
平成末の改修工事で復元された大階段上部の吹き抜け
正面入口を入って目前にあり、1階から3階のホールに通じている。幅はおよそ3間(5メートル強)[127]大理石が張り詰められている[128]。先述の通り、内田が意識的に記念性を持たせて、多額の費用をかけて設けたものであり、現在の総合図書館を代表する空間となっている。創建当時は大理石の床が顕れていたようである[129]が、その後階段全幅にわたる赤絨毯が敷かれるようになった。創建当時、大階段上部の4階には吹き抜けが設けられ、階段には自然光が差し込む造りとなっていた。この吹き抜けは岸本館長時代の改装工事で塞がれていたが、近年の改修工事の際に開口部が一部復元され、再び自然光が差し込むようになった。

1階記念室

1階北東隅にある記念室
記念室に飾られている鹿頭の剥製
1階北東端に位置する。この部屋は2階分の高さがある。壁一面にはチーク材で造られたパネルが張られていて、照明は天井からシャンデリアが下がっている。竣工時は記念室として造られ、東京帝国大学の歴史や図書館復興に関する資料などを展示していた[130]
戦時中には東京帝国大学出身の戦没者供養するための戦没者記念室が置かれ、白木の箱に納められた戦没者の肖像写真を安置する祭壇が設置された。1941年と1943年の秋には遺族らを招待して慰霊祭が催された[131]
岸本館長下の改修工事では、従来記念室として利用されていたこの空間は自由閲覧室とされた。
裏田館長計画の改修工事では、当室は雑誌閲覧室に改められた。これは、当室に接して設けられていた東翼の雑誌閲覧室を拡張して、自由閲覧室として利用されていた当室にも雑誌を配架するようになったものである。南側には新着雑誌を配架する書架が並べられ、西側(正面玄関側)にはパンフレットや機関誌等をおく低書架が設置された。残りの部分は閲覧席が設置され、室名こそ改められたものの、引き続き自由閲覧室としての利用も可能であった[51]
2015年からの改修工事期間中は、一時期利用者用のECCS端末が設置され、メディアプラザとして利用された。改修工事にあわせて、戦時中に撤去されていたと思われるシャンデリアが復元され、設置された。2020年11月17日には、再び記念室として開室された(通常時は閲覧室として利用可能)。
記念室として造られ、長らく利用されていたことから、多くの文物や館史に関係する資料などがこの室に飾られるようになった。現在展示されているものとしては、以下のようなものがある。
  • グヒエーシヴァリー寺院の模型 ネパールカトマンズ郊外にある寺院の模型で、1967年(昭和42年)、ネパール国の王子ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハが東京大学に留学した際に寄贈したものである。同寺院は、ヒンドゥー教における三大神の一であるシヴァの妃を祀っている[124][132]
  • 図書館模型 関東大震災後の図書館復興に対する寄附の返礼として、図書館完成時にロックフェラー・ジュニア氏に贈られた模型と同じ型で造られた鋳銅性の模型である[133]。なお、竣工式では同じく図書館を模ったインク壺、灰皿が配られているが、この模型よりも一回り小さい[124]
  • 鹿頭剥製 アカシカの頭部の剥製である。台座に付けられたプレートによれば、ウィンザーグレートパーク英語版で捕獲されたアカシカで、1913年に英国王ジョージ5世が東京帝国大学に贈ったものであるという。震災以前は大学本部(御殿)の壁に同じものが複数掛けられていて、震災後の火災の中でその中の一つが救出されたものである、との証言がある[124][134]
  • ダゴール肖像 高さ2メートルに及ぶ大きな油絵である。1957年10月8日に、インドの首相ジャワハルラール・ネルーが東京大学を訪問した際、Calcutta Art Societyを通じて寄贈したもの[124]
  • 南葵文庫扁額 関東大震災後、南葵文庫の蔵書が寄贈された際に同時に寄贈されたもの。この扁額の掲示が蔵書寄贈の条件とされたと伝えられる。徳川慶喜による筆[135]

1階旧新聞雑誌閲覧室

1階北西端、記念室と正対する位置にある。記念室同様、2階分の高さがある室として造られている。1928年12月1日の図書館完成時にあたっての竣工式は、この室で行われた[136]。内部壁面にはチーク材で格子状の装飾が配されている[128]。開館時には製本に出されていない新刊の新聞、雑誌が設置され、一部は自由閲覧、残りは出納式での閲覧ができるようになっていた[130]。岸本館長下の改装によって、2階に当たる高さ(廊下よりはやや低い)に新たな室が設けられ、学生閲覧室として使用が開始された。1階部分は参考室となり、参考図書類が置かれるようになった。参考室1階からは新設された2階学生閲覧室に上がることのできる階段が設けられていた[38]。裏田館長計画の改修では、2階部分は案内上(1階と一体の)参考室と呼ばれることになったが、閲覧席はそのまま存置されていた。2010年代の改修工事では、当室の1階部分は事務室に転用されることとなったため、利用者が立ち入ることはできなくなった。それに伴って1階と2階との間の階段も撤去された。2階部分は工事中の一時期間中開架書架が配置されたが、のちに撤去(移動)されて最終的にはセミナールームとなっている[50]

2階閲覧室

2階北側閲覧室
開館時には陳列室として造られたもので、図書館が所蔵する稀少書等の展示が行われていた[137]。月曜と木曜の週2回、各2時間半程度のみ開かれた[130]。戦後には判例などのコレクションがおかれるようになり、判例室として使われた時期があった。判例はのちに記念室に移されている[34]。岸本館長下の改修工事では、この部屋は学生閲覧室として利用されるようになった。裏田館長が計画した改修でも、ひきつづきこの場所は一般閲覧室として供され、2010年代の改修工事でも用途に変更は生じていない。同室は3階大閲覧室と同様の大机が配置されている。創建時はこの部屋に大机の配置は無かったため、これらの大机は3階閲覧室に開架を設置するために撤去された閲覧席を移設したものであろう。

2階東翼

創建時の東翼1、2階には研究室が設置されていた。これは図書館の蔵書を利用した研究を行う施設として造られたものである。設計した内田は、主として外国人研究者の利用を想定していたという[110]。大学の教員や、学部長の推薦を受けた大学院生、卒業生などが利用することをできた(ただし卒業生を含む学外者は使用料を納める必要があった)[130]。岸本館長下の改修では研究室は廃止されることとなり、2階東翼のうち南側には16室の閲覧個室、中央には談話室や個席室、北側には大学院学生閲覧室が設置された[38]。裏田館長計画の改修では、北側の大学院学生閲覧室は一般閲覧室として利用する一方で、南側の閲覧個室は撤去し、電動の集密書架を配置した漢籍書庫とした上で、開架との間に壁を設けて書庫の一部として利用するようになった[50]。1996年5月には、北側の一般閲覧室に計算機端末が設置され、メディアプラザとして利用に供されるようになった[90]。2010年代の改修工事では、再び書庫とは切り離されて開架エリアと一体で運用されることとなり、北側にはグループ学習が行えるプロジェクトボックス、南側はパソコンを設置するECCSルームとして利用されることとなった[138]

3階ホール

3階ホール
エドマンド・ブランデンレリーフ
3階の3階の大階段を中心として広がっている区画である。柱の間にはアーチが渡されていて、その内側にはメダリオンによって装飾が施されている。メダリオンの意匠は柱間ごとに異なるものとなっている。南側は壁を隔てて書庫と面しているため、創建時は出納を行うカウンターが置かれていた。カウンター前の空間は、4階までの吹き抜けとなり、その上部はガラス天井となっていたため、自然光が差し込む構造となっていた。大階段の周りには目録が配置され、蔵書の閲覧を希望する利用者は入館後大階段で3階に上がり、ホールに置かれた目録によって資料を確認して、カウンターで出納を求めるようになっていた[130]。岸本館長下による改修工事では、書庫の出納などを行うカウンターが1階に移されることとなったため、3階のカウンターは廃止された。また、4階にあった開口部を塞いで床が設けられたため、自然光は差し込まなくなった。裏田館長計画の改修工事では、南側にインフォメーションカウンターが設けられることとなった[50]
  • エドマンド・ブランデンレリーフ 東京藝術大学元教授の船越保武が製作し、文学部の斎藤勇名誉教授が寄贈した[82]。ブランデンは関東大震災直後の東京帝国大学で英文学の教師を務めた。鉄骨の組立工事が進む図書館の建設現場で、熱せられた鉄が飛び交う様子を題材として作られた「BUILDING THE LIBRARY, TOKYO UNIVERSITY: Night Scene」という詩や写生画が残されている[139]。なおブランデンは図書館完成前に日本を去っている[140]

3階閲覧室

3階北側の大閲覧室
建物の正面側(北側)に面する閲覧室である。開館時には、指定書やその他別置雑誌を除く一般図書の閲覧に供する一般閲覧室とされていて、500人を収容する館内最大の閲覧室であった。利用者は、証票や学生証を一般閲覧係に預けるのと引き換えに、座席番号が記された金属製の座席票を受け取って座席の指定を受け、借覧証に氏名や利用する図書の書名などを記入して出納係に渡すことで、図書の貸付を受けることとなっていた[130]。岸本館長時代の改装では開架閲覧室に改められ、閲覧室の全面にわたって並んでいた閲覧席の一部、約160席分を撤去し、中央部3分の1ほどの面積に約3万冊を収容する開架の書架スペースを設け、指定書や一般書が配架されることとなった。1962年2月1日に総長臨席の下で開室式が行われた[38][141]。ただしこの開架閲覧室は、学生証を預けて入室することとなっていて、安全開架式に近いものであった[52]。裏田館長計画の改修工事によって配置が改められることとなり、北側(窓側)には閲覧席が並べられる一方で、南側には全幅に渡って書架が配置されることとなり、分類順に配架された。壁面の造り付けの書棚には、大型図書や個人全集などが配架された[51]。2010年代の改修では、書架や閲覧席の配置に大きな変更は加えられていない。塞がれていた屋上のトップライトが再び開口されたため、自然光が差し込むようになった。また、床が85mmかさ上げされ、床下に冷暖房システムが設置された[142]
閲覧席に使用されている大机は、配置こそ何度か変更されているものの開館以来使われ続けているものであり、上部には蛍光灯を取り付ける改造が施されている。南北方向に渡されている梁の側面には、メダリオンによる装飾が施されている。

3階東翼

3階東翼は、創建時は指定書閲覧室とされていた。授業の参考書として教員が指定した図書が備えられていて、利用者は中央部の出納台で借覧の手続きを行い、閲覧席を利用することとなっていた。この室は学生のみが利用することができた[130]。岸本館長下の改修では、北側は閲覧室(東閲覧室)として引き続き供用されたが、南側にはハマショールド型というタイプの細分化された閲覧個室が設けられた。中央部には個席室、談話室が置かれた[38]。裏田館長計画の改修では、南側の閲覧個室仕切りは撤去されて、国連資料室が置かれた。北側にはマイクロ資料室が置かれることとなった[50]。2010年代の改修では、北側と南側は開架書架が置かれる部屋とされ、閲覧席は設置されていない。中央部東側はセミナールーム3となり、授業やセミナーに利用できる部屋とされたが、常時は閲覧室として利用できるような運用が行われている[138]

4階

開館時は3階の出納台前ホール上部、大階段上部がそれぞれ3間*5間、2.5間*9間の吹き抜けとなっていたため、4階は中央が開口部となり、利用できる面積が限られていた。階段室などの諸室を除いて、4階は大きく北側、中央、南側と3つの空間に分けられていた。北側は開館時の帝国大学新聞によれば喫茶室として使われていて[128]、実際にテーブルとイスが並んだ同室の写真が残されている[143]。一方で、同室には休養室として用いられ、日光東照宮の模型が置かれていた写真も残されている[144]。中央部は岸本館長時代の改装の直前時点で喫煙室として使われていたとのことで[38]、開館当時の写真でもテーブルセットの脇には灰皿が設置されている[145]。残る南側は、吹き抜けの開口部を中心に椅子が並べられた自由閲覧室となっていて、小説などが自由に利用できる状態で置かれていた。扉からは屋上庭園に出ることもできた[128]
1960年代の岸本館長下の改革では、この階は全く様相が改められた。まず下階からの吹き抜けはすべて塞がれ、床面積の増加が図られた。壁の位置も全く改められた。新たに外国法資料センターとアジアセンターが置かれたほか、演習室や談話室、多くの閲覧用個室や個席室が設けられた[38]
その後1980年代の裏田館長下の改装では、従来アジア資料センターと外国法文献センターが置かれていたスペースが利用できることになったため、(第二)開館閲覧室が設けられることとなった。もっとも先の改修では開口部を埋めて増床がされていたものの、4階全域に書架を配置すると設計を超えた過重を加えることとなるため、中央部に書架を配し、北側と南側には閲覧席を多く設けることとなった。教官個室等は改修の上引き続き利用された[50][51]
2010年代の改装では、連携研究機構ヒューマニティーズセンター、U-PARL(アジア研究図書館上廣倫理財団寄付研究部門)、そして新たにアジア研究図書館が置かれることとなり、総合図書館開架とは異なる分類によって、本郷キャンパス内に分散配置されていたあらゆるアジア関係資料を集中させて配架されることとされた。5万冊が収容可能で、2020年(令和2年)10月1日の開館時点では2万冊が配架され、今後学内の他図書館・図書室から移管が進められていく方針である[146]。また、この改装において3階大階段上の吹き抜けが復元され、スラブで塞がれていた開口部が再開口された。この吹き抜けの四周には創建当初石造の欄干[147]が設けられていたが[148]、この改装では欄干は復元されず、開口部に面した箇所はガラス張りの壁となった。南側3階旧出納台上の、東西方向に長い吹き抜けは復元されなかったが(3階ホールの開口部跡位置天井には光膜天井が設置されて光源が再現されている)、その上のハイサイドライトは屋上に塔屋を設けて復元されている[142]

5階

5階建となっているのは本館中心の一部分であり、面積としてはさほど大きくない。開館以来、この空間は倉庫などの事務スペースとして利用されていた。岸本館長下の改修を経て、1965年5月11日からはビュッフェが開業した。ビュッフェの業者選定にあたっては大学当局と出店を目指す東大生協の間で対立が生じていたが、当時東大病院付近で営業していたレストランモナミが営業を担うこととなった[149]。その後、ビュッフェの営業は終了している。裏田館長計画の改修では、この空間は談話や休息に供するための学生ラウンジが計画されていたが、実際には文学部の視聴覚教育センターが移転して入ることとなった[50]。視聴覚教育センターは耐震改修工事に先駆けて2017年に総合図書館から退去することとなり[150]、現在では飲食可能なラウンジとして開放されている[151]

書庫

書庫内1層から3層には床と一体となった鋼鉄製の階段が設けられている。
周囲の床はガラス張りである。
書庫に利用されている鋼鉄材には「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印が見られる
書庫は本館南側に設けられている。地上は本館の地階(1、2階相当)と主階が硝子床によってそれぞれ3層に分けられていて、地上6層地下1階となっている(本館3階と書庫4層が同一の高さである)[152]。書架は全て鋼鉄製での造り付けで、各層の硝子床と一体となったものである。利用者は3階出納台で出納の手続きを行うと、カウンターからは真空管でカードが書庫内に送られて、書架から取り出された図書は昇降機によって運搬されることとなっていた[153]。書庫は閉架式として運用されていたが、のちに安全開架式として一部の利用者が立ち入ることができる運用に改められている。
書庫には50万冊の図書が収容可能であると見込まれていた。これに加えて、地下には75坪の安全庫(5室)が設置され、特に貴重な資料の保存に充てられることとされていたほか、新聞書庫や雑誌書庫も設置されていた[154]
岸本館長下の改修工事では、当時仮書庫として使われていた東翼地下の空間を利用して保存書庫としたほか、大学院学生の利用を見込んで書庫内に125席のキャレルが設置された。この工事において、出納を行うカウンターは3階から1階に移設されている。
裏田館長が計画した改修工事では、地下に集密書架が設置されて収容冊数の増加が図られた[51]
2010年代の改修工事では、1-3層の書庫の北側一部が撤去されて、開架として新着の新聞・雑誌が置かれるようになった。開架と書庫の間は硝子の壁で仕切られ、行き来はできない。書庫の入口は地下1階に設置されている。

別館

本館前の図書館前広場に新たに設けられた、地下4階建の施設である。東京大学キャンパス計画室(野城智也川添善行)、東京大学施設部が設計監修を行い、設計施工は清水建設が請負っている。

図書館前広場は、南側に総合図書館本館、東西に法学部4号館と文学部3号館、北側には法文2号館と法学部3号館があり、四方を建物に囲まれていた。これらの周囲隣接建物に影響を与えることなく工事を行うために、別館の建設にあたっては清水建設の提案に基づいてニューマチックケーソン工法が採用されている。この工法は、ケーソンの下底に圧縮空気を送り込んで地下水の浸入を防ぐ作業室を設けて掘削や排土を行い、ケーソン上部では構築工事を進めて、徐々にケーソンを沈下させていく工法である。通常は橋脚工事等で用いられる土木工法であり、それを建築物に応用した別館の建設は技術上極めて特異な工事となった[155]

地下に設けられることから、浸水や土圧への対策の必要があり、躯体は柱と一体となった幅1,900-2,300mmの躯体壁が設けられ、その外周はさらに6mmの止水鋼板で覆われ、各鋼板の境目は溶接によって処理されている。これらの構造は、地下水の中で建築物全体が浮上するのを、重量によって防ぐという役割も果たしている[60][155]

別館の建築は、以下の賞を受賞している。

  • 一般社団法人照明学会 第17回照明デザイン賞 入賞(2019年)[156]
  • 一般社団法人東京都建築士事務所協会 東京建築賞・第45回建築作品コンクール 一般二類部門 最優秀賞(2019年)[157]

地下1階ライブラリープラザ

この空間は、学生や教職員の誰もが利用できる全学的なアクティブ・ラーニングの場として計画されたものである。議論を伴うグループワークや、トークセッションなどの利用が想定されている[65]
空間はおおよそ円形の平面となっていて、東西の両側に出入口が設けられている。これらの入口は、法学部4号館と文学部3号館の地下にある図書室に面して設けられたサンクンガーデンに接している。室内中央の上部は、ガラスの張られたトップライトとなっているが、この直上に噴水がある。この噴水は、水が出る機能を廃してモニュメントとして相輪塔のみを残すことも検討されたが、関東大震災で焼失した図書館の復興において防火水槽としての役割も与えられて造られたものであるため、その経緯の歴史性を尊重して、浅く水を張って噴水としての機能を存続することとされた。このため、ライブラリープラザには水面を通してゆらぎのある自然光が差し込むようになっている[3][158]。トップライトはアクリルパネルと網入りガラスの二重構造とすることで、止水性を確保している。またロールスクリーンが設置されていて、必要に応じて開閉される[159]。このトップライトの周囲の天井には、岐阜県東白川村の天然杉を利用したルーバーが同心円状に配置されている[3]。この木製ルーバーは、照明の器具を隠して光が直接目に入るのを防ぎ、ルーバーに反射して均一な明るさを確保するとともに、天井に設置される吸音材とともに反響を防止する機能もある[3][159]
ライブラリープラザは2017年(平成27年)7月に、耐震改修工事を行う本館の閲覧席の代替スペースとして仮オープンした。このときは本館の閲覧室で使われていた閲覧席を再利用していた。2018年10月には本来のアクティブラーニングの場としてリニューアルオープンを果たし、これに伴って設置されていた閲覧机や椅子を一新し、可動性があって柔軟に利用できるものに取り換えた。以降、能動的な学習空間として運用されている[3]

地下2-4階自動書庫

約300万冊の書籍を収容可能な自動化書庫として設計された空間である。各階は、それぞれ約10メートルほどの高さがある。
書庫という機能を地下に実現することから、止水の面では万全の対策が施され、先述した躯体壁や止水鋼板に加えて、躯体碧の内側には1,200mm幅のバッファゾーンが設けられて、万が一躯体壁の内側への浸水が起こった場合でもバッファゾーンまでで浸水を食い止めて、地下から排水を行う計画となっている[155]
これらの空間には、日本ファイリング株式会社の自動書庫が設置されている。資料はコンテナに収められて収容されるが、この数はA5サイズ25,184個、B5サイズ25,032個、A4サイズ9,516個、フリーサイズ(A4以上)3,000個となっている。本館の地下1階と1階に出納ステーションが設けられ、図書館の館内で出庫の指示が出された資料を載せたコンテナは、クレーン等によってこれらのステーションに運ばれる。図書館員がコンテナから出庫要求が出された資料を取り出し、利用者はカウンターで図書館員から目的の資料を受け取ることとなる。コンテナを取り出すスタッカークレーンは13台、垂直搬送機は3台が備えられている[3][65]
現在では製本雑誌、利用頻度が少ない開架図書、状態の良い書庫の図書、学位論文が収められる運用となっている。300万冊という収容冊数の計画は、人文社会系資料の今後30年間の増加に対応したものとなっている[3]

注釈

  1. ^ 常勤には職域(時間)限定職員を含む。
  2. ^ 本郷キャンパスの総合図書館、駒場キャンパスの駒場図書館(大学院総合文化研究科図書館の機能を併せ持つ)、柏キャンパスの柏図書館の3 つの拠点図書館のことである。
  3. ^ 1)法学部研究室図書室、2)大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター(明治新聞雑誌文庫)、3)医学図書館、4)工学情報理工学図書館、5)大学院人文社会系研究科・文学部図書室、6)理学図書館、7)農学生命科学図書館、8)経済学図書館、9)大学院総合文化研究科図書館、10)大学院総合文化研究科自然科学図書室、11)大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター図書室、12)大学院教育学研究科・教育学部図書室、13)薬学図書館、14)大学院数理科学研究科図書室、15)大学院情報学環・学際情報学府図書室、16)大学院情報学環附属社会情報研究資料センター、17)医科学研究所図書室、18)地震研究所図書室、19)東洋文化研究所図書室、20)社会科学研究所図書室、21)生産技術研究所図書室、22)史料編纂所図書室、23)宇宙線研究所図書室、24)物性研究所図書室、25)大気海洋研究所図書室、26)先端科学技術研究センター図書室、27)総合研究博物館図書室の27か所の部局図書館のことである。
  4. ^ 組織図として、東京大学附属図書館の下に総合図書館が位置することになるが、実際には、附属図書館長が総合図書館長を兼ねている。職制において、附属図書館長の下に、駒場図書館長、柏図書館長と並んで附属図書館副館長が配置されている。

出典

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    当論文ではウォーナー・リストを爆撃回避のリストとして見做すことには否定的であるが、本郷キャンパスに関しては例外的に「東京帝国大学は周辺が焼かれた中でほぼ無傷で残った。何らかの意思が働いたとの説にはそれなりに説得力があり、完全に否定しがたい部分が残る」(p.65)とも述べる。
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  159. ^ a b 笠原真紀子・中澤公彦・野村圭吾「竣工フラッシュ② 東京大学総合図書館別館」『建築設備士』建築設備技術者協会、2018年9月、9-15頁
  160. ^ 「東京大学OPAC:東京帝國大學附屬圖書館圖書分類表(書庫内) / 東京帝國大學附屬圖書館 [編」]





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