敢國神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 05:23 UTC 版)
歴史
創建
社伝[1]では、斉明天皇4年(658年)の創建になるとする。これによると祭神の大彦命は四道将軍として北陸地方を平定し、その子孫は伊賀国阿拝郡一帯に居住して阿閇氏(敢氏/阿閉氏)を称し、大彦命を祖神として祀ったという。また、それとは別に少彦名命を祀る秦氏一族があり、これら2柱をもって創建されたとする。創建当初は、敢國神社南方の南宮山山頂付近に祀られたが、後に現在地(南宮山山麓)に遷されたという。その後、山頂附近の社殿跡には南宮大社より勧請された金山比咩命が祀られた為、その山が「南宮山」と呼ばれたともいう。そして貞元2年(977年)、金山比咩命の社殿前の神木に言葉が現れたことにより、金山比咩命を敢國神社に合祀したとしている。
実際の古代祭祀については、南宮山が円錐形を成す典型的な神奈備であることから、この南宮山に対する原始信仰に始まったと見られる[3]。特に敢國神社南方200メートル付近に大岩(「黒岩」とも)が存在したことから、これを磐座として南宮山を遥拝する形の祭祀が行われたものと推測されている[3]。この大岩は現在は失われているが、付近には大岩古墳があり、古墳時代の祭祀の存在が指摘される[3]。同地にはかつて大石明神(大岩明神)が祀られ、これがかつての祭祀の根本であったと見られるが、同社は現在は敢國神社境内に遷され「大石社」として祀られている[3]。
概史
国史に見える記事では、『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)条において従五位下の神階を授かったと見える伊賀国の「津神」を敢國神社に比定する説がある[3][2][4]。一方、『日本三代実録』貞観6年(864年)条において従五位下を授かったとある伊賀国の「安部神」に比定する説もある[5][6][注 2]。その後『日本三代実録』や『日本紀略』によると、「敢国津神」または「敢国津大社神」の神階が貞観9年(867年)に従五位上、貞観15年(873年)に正五位下、寛平3年(891年)に正五位上に昇叙されている[5]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では伊賀国阿拝郡に「敢国神社 大」と記載され、式内大社に列している[5]。大社に列したのは伊賀国で敢國神社が唯一になる。また、延長年間(923年 - 931年)には朝廷によって社殿が修復されている。
『伊賀名所記』(室町時代末期頃成立)によれば、安和2年(969年)に正一位に叙せられたという[6]。また『源平盛衰記』に「一宮南宮大菩薩」と見えるのを初見とし、以後は伊賀国において一宮の位置づけにあったとされ[6]、この頃より「南宮」とする呼称も見られる[2]。
南北朝時代には南朝の後村上天皇が行幸し、数日間の参籠を行った後、社領を加増している。
中世以降は諏訪信仰が流入して甲賀三郎譚も広がり、敢國神社の祭祀の中心をなした[3]。天正9年(1581年)の天正伊賀の乱では、織田信長の侵攻に伴って社殿を焼失し、この時に多くの社記も失われている[2]。この荒廃を受け、文禄2年(1593年)に山伏の小天狗清蔵によって社殿が再建された[2]。小天狗清蔵は慶長3年(1598年)に湯釜(伊賀市指定有形文化財)も寄進している[3]。
江戸時代に入り藤堂高虎が伊賀に入国した後は、藩主により上野城の鬼門として崇敬をうけ、慶長14年(1609年)に本殿が再興された[3]。次いで鐘撞堂も建立され、慶長17年(1612年)には社領として107.4石が寄進されている[3]。この頃の神主は、東氏・南氏・中西氏が担っていた[3]。
明治維新後、1871年(明治4年)5月に近代社格制度において国幣中社に列した[1]。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
神階
- 嘉祥3年(850年)6月4日、従五位下? (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「津神」。
- 貞観6年(864年)10月15日、正六位上から従五位下? (『日本三代実録』) - 表記は「安部神」。
- 貞観9年(867年)10月5日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』) - 表記は「敢国津神」。
- 貞観15年(873年)9月27日、従五位上から正五位下 (『日本三代実録』) - 表記は「敢国津大社神」。
- 寛平3年(891年)4月28日、正五位下から正五位上 (『日本紀略』) - 表記は「敢国津大社神」。
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