広瀬武夫 エピソード

広瀬武夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 14:23 UTC 版)

エピソード

  • 広瀬は漢詩人としても有名である。「正気歌」は、七生報国と至誠の情を熱く詠んだ七言古詩で、漢詩の選集にもよく採られている。広瀬がロシア滞在中、プーシキンの恋愛詩を漢詩に訳してアリアズナに贈った挿話も有名である。旅順港口閉塞作戦のとき「七生報国、一死心堅。再期成功、含笑上船」(七たび生まれて国に報ぜん。一死、心に堅し。再び成功を期し、笑みを含みて船に上る)という四言古詩を書き残したが、結局これが遺作となった。
  • この広瀬の最後の漢詩について、明治を代表する漢詩人の一人であった夏目漱石は、「艇長の遺書と中佐の詩」[14]という随筆を東京朝日新聞に発表し、潜水艇事故で殉職した海軍大尉の佐久間勉の遺書と比較して論じている。漱石は佐久間の遺書と広瀬の遺作となった漢詩を「まづいと云ふ点から見れば双方ともに下手い[14]としたが、佐久間の遺書は「名文[14]其文の拙なれば拙なる丈真の反射として意を安んずる[14]と褒め(前日に東京朝日新聞に発表した随筆「文芸とヒロイツク」[15]でも佐久間を褒めていた)、広瀬の漢詩については「甚だ月並[14]誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉れたならと思ふだらう[14]中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面影がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ[14]と酷評した。
  • 海軍兵学校時代、大運動会のマラソンで左足を骨膜炎に冒されながら完走する。一時は左足切断を宣告されたが、最終的には安静にすることで完治した。ただし、その後も時折左足の痛みには悩まされていたらしい。
  • 日清戦争後、捕獲艦鎮遠の清掃活動で「一番汚い箇所からやるものだ」と便所掃除へ向かう。躊躇する部下を尻目に、広瀬は爪で汚れを擦り落として部下に模範を示した。(爪を以て支那兵の枯糞を掻く[16]
  • 柔道での得意技に豪快な俵返があった。彼が海軍軍人であったことから「大砲」と呼ばれていた[17]講道館紅白戦で柔道の5人抜き(6人目で引き分け)により、二段に昇段する。旅順閉塞戦で戦死すると、嘉納治五郎から忠勇を称えられ四段から六段へ昇段した。講道館柔道殿堂入りもしている。
  • 「駐在武官としてペテルブルク市に滞在時、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えた。それがソ連邦で発明された着衣格闘技・サンボに強く影響を与えた」との説が一部で唱えられていたが、近年の研究によりこの説には否定的な見方が示されている[注釈 3]
  • 生涯独身であり、女性関係はあったものの極めて真面目で、遊廓に出入りすることも社交界で交際することも皆無だった。唯一の女性との関係はアリアズナとの文通であったという。また女性とデートしても、部下への体面があるとして手を出さなかったという手紙が残っており、その手紙を石原慎太郎が所有している[注釈 4]
  • 見習い士官だった頃、駿州の清水港に上陸する機会があった。この時、広瀬を含む50名程度の海軍軍人が名代の侠客清水次郎長を訪ねた。次郎長は座中一同を見渡し「いや、こう見たところで男らしい男は一匹もいねぇな」と言い放ったため、座中の中から広瀬が現れ「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやるから、びっくりするな」と言って、いきなり鉄拳を固めて自分のみぞおちを50、60発続けざまに殴った。これには次郎長も「なるほど、お前は男らしい」と感心し、お互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されている[18]
  • 兵学校で同期の財部彪山本権兵衛の娘との縁談が持ち上がった際、「財部は将官間違いなしの優秀な男だが、閣下の娘を貰ったのではその縁で出世したかのように思われて財部のためにならないから、この縁談はやめてもらいたい」と山本に談じ込んだという。しかし、山本の妻・登喜子が「うちの娘は、権兵衛の娘であるがゆえに、いい人と結婚できないのでしょうか?」と泣きついたため広瀬も引き下がらざるを得ず、結局広瀬の死後にこの懸念は現実となった。
  • 長い間、アリアズナの父親はロシア海軍のコヴァレフスキー少将とされてきたが、2010年になって日露の研究者により、実際の父親は別の人物であったことが明らかとなった[19]
  • 東京相撲(当時)の常陸山谷右エ門とは非常に親しく、義兄弟の関係を結んでいた。常陸山が横綱になった時、広瀬は日露戦争で戦地におり、常陸山の綱姿を見られなかったため、土俵入りの写真を送って欲しいと手紙で常陸山に頼んだ。しかし、常陸山が送った写真が届く前に広瀬は戦死してしまい、「横綱常陸山」の姿を見ることはついに叶わなかった。このことは常陸山を非常に悲しませたが、これが元で後に広瀬は図らずも出羽ノ海一門全員の命の恩人となった(詳細は常陸山の項目を参照のこと)。

注釈

  1. ^ 広瀬の遺体をロシア軍が収容したこと、遺体は頭部以外ほとんど損傷がなかったこと、ロシア側が撮影した遺体や葬儀の写真が残っていること、などの事実は、日本では今でもあまり知られていない。川村秀「『軍神』広瀬武夫・死の真相」(『文藝春秋』2009年12月臨時増刊号)参照。
  2. ^ 東京日日新聞1908年(明治41年)12月26日朝刊東京版によると、海軍兵学校同窓の財部、森両名が発起。東京日日新聞、時事新報大阪毎日新聞の3紙が寄付金を募集。読者から2万3千円が集まった。同年12月23日に東京市長の工事許可が出た。22尺の台基の上に12尺の立像。台石の前面には杉野兵曹長の座像を、背面には錨一挺を配する、とある。
  3. ^ 2010年に和良コウイチが著した「ロシアとサンボ」(晋遊舎)では (1) 広瀬が皇帝の前で柔道を披露した、など周辺の伝説に対応する公式報告が広瀬から日本に送られていない。そのような出来事がもしあったら広瀬の報告の性質からいっても記述は義務である (2) 書簡で「ロシアでは柔道を稽古する場が無い」と嘆いている。(3) 過去の「サンボに影響説」の文章に登場するサンボ創始者たちと広瀬は、年代的にも距離的にも接点が無い (4) 仮に教えていても、組織無しにサンボが生まれる時期まで柔道を伝えるのは困難だが、現地に柔道の組織は無かった-などを論拠に、影響説に否定的な見方を示している。以前は廣瀬の影響説を公式サイトに掲載していた日本サンボ連盟も2010年、その記述を削除した。
  4. ^ ちなみにその書を慎太郎次男・石原良純テレビ東京系の番組『開運!なんでも鑑定団2007年5月15日放送分)に出したところ本物と認定され、鑑定結果は12万円(本人評価額は160万円)であった。

出典

  1. ^ 大分県教育会 1928, p. 110.
  2. ^ 松本鳴弦褸『柔道名試合物語』河出書房、1956年、100頁。 
  3. ^ 関榮次『遥かなる祖国 ロシア難民と二人の提督』PHP研究所、1996年、143頁。 
  4. ^ 川村秀「軍神・広瀬武夫『ロシアの恋』の真実」『文藝春秋臨時増刊「坂の上の雲」』2011年12月
  5. ^ a b 木村荘八「広瀬中佐」『東京の風俗』毎日新聞社、1949年、57-59頁。doi:10.11501/2983988 オンライン版当該ページ、国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 朝日新聞1947年7月23日朝刊東京版。
  7. ^ 斎藤雅道 (2023年3月27日). “「JR神田万世橋ビル」に立つ“アヤしいポール”の正体 かつての万世橋駅跡 GHQに消されたモノとは?”. 乗りものニュース. 2023年10月1日閲覧。
  8. ^ a b 広報たけた” (PDF). 竹田市 (2010年11月). 2021年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月27日閲覧。
  9. ^ イザ!「坂の上の雲」の広瀬中佐ブロンズ像の除幕式”. iza!. 産経デジタル. 2021年7月27日閲覧。[リンク切れ]
  10. ^ 廣瀬武夫像が廣瀬神社にやって来ました”. 土居昌弘竹田市長) 公式サイト (2017年12月26日). 2021年12月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月27日閲覧。
  11. ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日
  12. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  13. ^ 『官報』第5230号「叙任及辞令」1900年12月6日。
  14. ^ a b c d e f g 夏目漱石「艇長の遺書と中佐の詩」『東京朝日新聞』、1910(明治43)年7月20日。(オンライン版)艇長の遺書と中佐の詩”. 青空文庫 (2003年4月1日). 2023年10月1日閲覧。
  15. ^ 夏目漱石「文芸とヒロイツク」『東京朝日新聞』、1910(明治43)年7月19日。(オンライン版)文芸とヒロイツク”. 青空文庫 (2003年4月1日). 2023年10月1日閲覧。
  16. ^ 剣影 1904, pp. 4–5.
  17. ^ 嘉納行光川村禎三中村良三醍醐敏郎竹内善徳『柔道大事典』佐藤宣践(監修)、アテネ書房、日本 東京(原著1999年11月)。ISBN 4871522059。"大砲"。 
  18. ^ 坂の上の雲「広瀬武夫」逸話集
  19. ^ “「坂の上の雲」“軍神”広瀬中佐の恋人に秘密 旧ソ連が偽情報か” (日本語). 産経新聞. (2010年10月18日). オリジナルの2010年10月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101021044738/http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101018/acd1010181307002-n1.htm 2010年10月19日閲覧。 
  20. ^ 椎葉京一 編集『思い出の軍歌集』野ばら社、1964年。


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