崇光天皇 崇光天皇の概要

崇光天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 10:23 UTC 版)

崇光天皇
『歴代尊影』

即位礼 1350年2月3日(貞和5年12月26日
元号 貞和
観応
時代 室町時代南北朝時代
征夷大将軍 足利尊氏
先代 光明天皇
次代 後光厳天皇[注 1]

誕生 1334年5月25日建武元年4月22日
崩御 1398年1月31日応永5年1月13日
陵所 大光明寺陵
追号 崇光院
(崇光天皇)
益仁
興仁
別称 勝円心(法名)
伏見殿
父親 光厳天皇
母親 正親町三条秀子
子女 伏見宮栄仁親王
興信法親王
瑞室
弘助法親王
皇居 押小路烏丸殿
土御門東洞院殿
持明院殿
親署
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光厳天皇の第一皇子。母は正親町三条公秀の女の正親町三条秀子

光明天皇譲位を受けて践祚。在位中には観応の擾乱が激化し、南朝足利尊氏の和平である正平一統が成立すると、後村上天皇によって廃位された。さらに、正平一統が破綻すると、光厳上皇・光明上皇・直仁親王とともに、南朝によって拉致された。帰京後、急遽践祚した弟の後光厳天皇との皇位継承争いにも敗れ、光厳法皇から継承した伏見荘に逼塞した。

崇光天皇の子孫は伏見宮と称され、称光天皇崩御の際に伏見宮の血筋である後花園天皇が践祚した。後花園天皇の子孫は現在の皇室であり、その弟である伏見宮貞常親王の子孫は伏見宮を代々継承、明治以降は伏見宮が11の宮家に枝分かれした。そのため崇光天皇は「現在の皇室」と「旧皇族11宮家」の男系での共通祖先の天皇にあたる(なお、男系での最近共通祖先は孫にあたる伏見宮貞成親王であり、女系を含めた場合での最近共通祖先は江戸時代霊元天皇である)。

略歴

建武元年4月22日(1334年5月25日/グレゴリオ暦6月2日[5])、光厳天皇の第一皇子として誕生したが、北朝が成立した際、父の光厳上皇は興仁(崇光)ではなく花園法皇の皇子である直仁親王の立太子を望んだ。だが、光厳上皇に実子があるにもかかわらず、従弟の直仁の擁立に異論を挟む廷臣が多く、光厳もやむなく興仁を立てることとし、暦応元年(1338年)に立太子される[6]

貞和4年(1348年10月27日に叔父の光明天皇から譲位され即位。父の光厳上皇が院政を執った。皇太子には直仁親王が立てられた。実は直仁は、光厳上皇と花園法皇の女房である正親町実子との間に産まれた子供であり、家永遵嗣は、直仁の母が赤橋登子足利尊氏の正室)の遠縁にあたることから、光厳上皇は幕府との関係によって直仁の子孫が皇位を継ぐのが望ましかったとしている[7]。もっとも、赤松俊秀岩佐美代子深津睦夫など、光厳が幼い頃に花園から帝王教育を受けていることから、花園への報恩とする研究者も多く依然定説はないが、光厳は崇光天皇を「一代主」として位置づけようとしたのであった。

その後、足利家の内紛から観応の擾乱が激化すると、安全のためにたびたび持明院殿に行幸するようになる。観応2年(正平6年、1351年)には尊氏が南朝に帰順することで正平一統が成立し、北朝は消滅。11月7日に、崇光天皇は後村上天皇によって廃位された。

もっとも、皇太弟の直仁親王はこのとき廃太子されておらず、長講堂領をはじめとする光厳上皇の所領は南朝の後村上天皇によって全て安堵されており、崇光天皇も後村上から尊号(太上天皇号)を受けていた。南朝は持明院統に対し、懐柔政策を採っていた。しかし、正平7年(1352年)2月、南朝は京都から足利義詮の軍勢を排除して占領下におき、室町幕府との和平を破棄し、戦闘を再開した。このとき、光厳・光明・崇光の3上皇及び廃太子直仁ら北朝の主だった皇族は南朝の本拠である賀名生へ拉致された。旧北朝は、新天皇の践祚に必要とされる三種の神器を南朝に渡してしまっており、さらに次期天皇の任命権者である上皇のいずれも南朝方に連れ去られ(三種の神器が不在の場合、当時は後鳥羽天皇の先例に基づき太上天皇の詔宣を用いて新天皇の践祚を行うことができた)、新しい天皇を践祚する方法が無く、再興に多大な困難が生じた。たまたま南朝による拉致をまぬがれた光厳の第二皇子で崇光の同母弟にあたる弥仁王が擁立され、祖母の広義門院が光厳に代わって主導し、継体天皇の「群臣義立」の先例を基に新天皇が践祚した。後光厳天皇である。

賀名生に移された上皇3名と直仁親王は、文和3年(1354年)3月には河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。10月になると南朝の後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とした。だが、文和4年(1355年)には光明上皇のみ京都に返される。

まだ京都にて在位していた観応元年より、崇光は父光厳上皇のもとで琵琶の修練を開始していたが、文和4年10月、金剛寺にて秘曲の「楊真操」を伝授され、翌年5月には「石上流泉」と「上原石上流泉」を伝授された。そして延文元年10月20日、光厳の在俗最後の事業として、崇光は最秘曲である「啄木」を伝授された。(持明院統において琵琶は正嫡のみが修得する)

金剛寺で3年あまりの抑留生活を送るが、南朝勢力が衰微して講和へ傾くようになると、延文2年(1357年)2月に光厳院、直仁親王とともに帰京する。直仁親王はすでに出家したため、光厳は崇光を持明院統の正嫡に定めた。 帰京後の崇光と後光厳は良好な関係を築いたとされるが、応安3年(1370年)8月にいたって後光厳が自らの第二皇子の緒仁への譲位を望むと、両者の関係は決裂した。即位の事情から天皇としての正統性を疑われており、緒仁を正式に皇太子に立てることもできなかった後光厳に対し、崇光は自らの第一皇子の栄仁の即位を要求して争ったが、管領細川頼之が指導する幕府の不介入方針もあって、最終的には後光厳に押し切られ、後光厳から緒仁への譲位が実現した。後円融天皇である。なお、永徳2年(1382年)4月に後円融が第一皇子の幹仁(後小松天皇)に譲位しようとしたときは、後円融は過剰に崇光を恐れたが、崇光は栄仁の即位を主張せず、また足利義満が後円融を強く支持したため、結局栄仁の即位は実現しなかった。

応永5年1月13日1398年1月31日/グレゴリオ暦2月8日)、失意のうちに崩御。宝算65。

没後30年目の正長元年(1428年)、貞成親王の子で、崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が、2人の息子に先立たれて後継者を失った後小松院の猶子として即位し、血統上ではあるものの崇光の皇統は天皇家に返り咲いた[注 3]。その後、貞成親王に後花園天皇の「傍親(兄)」として尊号宣下が行われた[9]。貞成が死後に上皇として贈られた院号は、後崇光院であった。

著作

琵琶に関する著作を多数書写したほか、日記として『崇暦御記』『不知記』が残る。


注釈

  1. ^ 北朝正統の立場を採る歴史書でも、正平一統の際の後村上天皇を歴代に加えるものもある(『続史愚抄』など)。
  2. ^ 明治時代まで一般的であった『本朝皇胤紹運録』による天皇代数では、崇光天皇は98代天皇[3]
  3. ^ 後花園天皇は、後光厳天皇の皇統の後継として後光厳皇統の存続を図ったとされる[8]

出典

  1. ^ 「崇光天皇」『日本人名大辞典』 講談社。
  2. ^ 崇光天皇』 - コトバンク
  3. ^ 片山杜秀『尊皇攘夷―水戸学の四百年』2021、p.197。
  4. ^ "崇光天皇". 朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年1月13日閲覧
  5. ^ 宮内庁はグレゴリオ暦で祭祀を行っているため、グレゴリオ暦を併記する。
  6. ^ 家永 2016, pp. 107–109.
  7. ^ 家永 2016, pp. 109–115.
  8. ^ 田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下」『史学雑誌』(127編11号)2018年,p.15(1683)
  9. ^ 田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下」『『史学雑誌』(127編11号)』2018年,p.4(1672).
  10. ^ 池辺義象編『歴代御製集.3』1915,p.428


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