岩松八弥 広忠襲撃の伝承の特徴

岩松八弥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 07:43 UTC 版)

広忠襲撃の伝承の特徴

少なくとも江戸期に成立した史書の多くは、官撰のもの(『武徳大成記』)とそうでないもの(『武徳編年集成』名著出版上巻28頁)、初期に成立したもの(『三河物語』『松平記』)と後年の編纂物(『徳川実紀』など。刊行本1巻24、25および26頁)に関わらず、広忠は病死したと記している。しかしそれらがいずれも江戸において著述もしくは編纂された史書であるのに対し、広忠が近侍の者に殺害されたことを記録としてとどめる『岡崎領主古記』『龍海院年譜』『三州八代記古伝集』が三河で編述されたものであるところに、一連の伝承の特徴が認められる。

岡崎領主古記

成立は、正保2年(1645年)~寛政10年(1798年)の間と考証されるが、実際には、寛政11年(1799年)写のモノしか確認できない。また、文中には、井上信好書写朱字加筆および加茂久算貼紙貼付のされている箇所が多数あり、朱書きや貼り紙の部分の加筆も含めれば、江戸末期の成立といえる。加筆部分は、本文中の間違いを指摘するモノがあり、史料価値に問題がある。片目弥八の広忠襲撃事件においても、朱書きで、御年譜附尾には、この事件は天文14年3月のことで、傷浅く、天文18年3月逝去。と書き入れがあり、井上信好も徳川家年譜との違いを疑問視している。

また、原本は水野監物秘蔵本としながらも、桶狭間の合戦の折の刈谷城落城の時の城主を、水野藤九郎守世、朱書きで系図に守近とするも、いずれも誤りで、正しくは水野信近である。守世、守近なる人物名は存在せず、信近の前の城主の水野近守を誤ったものと思われる。

また、徳川家の天文年中の五奉行(豊臣五奉行の模倣?)の人名が、記載されるが、岡崎市の浄珠院の古文書の天文五年の広忠公奉行人連署證文の人名と1人も一致せず、こちらは7名である。 

「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承

前掲「及聞秘録」の中に「弥八」の出自に関する記述がある。その文意は以下のようなものである。

  • 清和源氏の流れをくむ「岩松次郎経家」の末孫に「幸若与惣太夫」という者がいた。
  • 父「与太夫」は三河の「一向衆門徒ノ徒乱」の際、その宗旨に関わらず松平宗家に忠節を尽くした。
  • この「与太夫」の祖父が「片目弥八」である。
  • 「弥八」が誅せられた後、その子孫は殺害されたが、幼いためにその命を助けられた者がいた。この者は「幸若」の弟子となり「舞々」となった。

この「一向衆門徒ノ徒乱」が永禄時代の三河一向一揆を指すのならば、助けられたのは「与太夫」ということになる。しかし「舞々」になった子供を「与太夫」とする明確な記述がない。またこの後の記述は「幸若与惣太夫」が「天下御統一之後正月三日ノ御謡始」に「御流ヲ頂戴」したというものに変わってしまうため、さらに理解が困難なものとなっている。各人に関しての不確かな伝承が記述に反映されたものと考えられる。

また「改正三河後風土記」に次のような記述がある(秋田書店刊行本上巻173より175頁)。

  • 譜代武士「岩松八弥」の出自は新田氏末裔の岩松氏であり、またその武功を顕して、自ら「片目八弥」と称していた。
  • 天文14年3月「何の子細もなく」村正の脇差をぬいて広忠を突いた。仕損じて逃げたところを植村新六郎に討ち取られた。
  • 1人の子は処刑されたが、6歳の孫は助けられて「越中の住人桃井の末孫 幸若」の弟子となった。その名を「幸岩」としたがこれは「岩松」と「幸若」のそれぞれの一字を合わせたものである。また成長してその名を「与太夫」とした。
  • その子「与三太夫」は徳川秀忠の「御咄の衆」となり、剃髪して「真斎」と号した。その子「忠八郎」は「舞々大夫」をゆるされた。

  1. ^ 新編安城市史5資料編「古代・中世」には、総侍尼寺の寺侍本間重豊著で、17世紀のうちに成立したとあり、具体的な年次の記載はない。愛知県図書館所蔵には、出版年・寛政11年(1799年)、出版者・中村左京、出版地不明とある。岡崎市図書館にも、写本複製とあるが、年次の記載はない。国立国会図書館・国立公文書館DBには登録されていない。
  2. ^ 愛知県図書館所蔵本などでは「佐久間」とのみ記すが「朝野旧聞裒藁」所載のものは「佐久間九郎左衛門」と記している。宮内庁書陵部所蔵「静幽堂叢書36」(請求番号:103-10)所載「岡崎領主古記」がこれにあたる。
  3. ^ 国立公文書館DBには、選者あるいは著者・水野監物、校訂者・竹渓伯竜 旧蔵・昌平坂学問所とある。岡崎市図書館にも、写本複製が所蔵されている。
  4. ^ 「其の実は」として広忠の殺害を記すが、もともとこの項目は「又曰く」として述べられていることから。
  5. ^ 「佐久間九郎左衛門」は明治25年の「三河国西加茂郡誌」141頁および同書の出典としてその名がみえる「東照軍鑑」(成立年不明)では「全孝」とされている(巻1)。「三河国二葉松」「三河志」には「九郎左衛門」とする以外に見るところがない。
  6. ^ 寛政譜』では「家存 初め家政」(新訂5巻174頁)とされる人物。その孫の植村家政とは異なる(同頁)。ただし『寛永諸家系図伝』『寛政譜』共に、広忠を襲った「浅井某あるいは蜂屋」(後述)を討ち取ったのは「家政」の父「某・新六郎」のこととして記し、「或は曰く家政」とする説を否定している。松平清康の殺害犯阿部正豊を討ち取った「某・新六郎」と同一人物とみられることを理由とする。なお『寛政譜』ではこの「某・新六郎」の項に「今の呈譜、氏明に作る」とし(同前173頁)「栄安」を法名としている。
  7. ^ 信孝は天文17年に広忠と戦い討たれているので、18年に事件が起きたとすると矛盾する
  8. ^ 序によれば徳川家康譜代の家臣の平岩親吉著作。国立公文書館・国立国会図書館DB登録。幕府の儒学者の成島司直が、幕末天保に、これを原書として校正する形で、「改正三河後風土記」を作成した。成立年代については、改正三河後風土記・凡例によると、原書・三河後風土記は寛永正保の頃の撰述という。江戸初期に既に成立していたという。
  9. ^ 『三河後風土記』では、松平清康の件は「植村新六郎栄安」、松平広忠の件は「植村新六郎家次」とあり、同一人物・別人については触れていない。『改正三河後風土記』には文中で注釈がある。『改正三河後風土記』では「植村新六郎家次」ではなく、「植村新六郎」(系図には某、諱を持益:もちまさ、出羽守家政が父、大三河志は永政とする)とあり、松平清康森山崩れで、阿部正豊を討った人物と同一人物であり、清康、広忠、2代の主君の敵を討った勇士とし、井田合戦で討死は誤り、と記す。
  10. ^ 公式に記録されている広忠の男子は当時、織田氏の下にいた竹千代(徳川家康)のみであるため、広忠が死亡すれば岡崎は城主不在の城となる。
  11. ^ 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(初出:『中京大学文学論叢』1号、2015年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P377-379.


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