岩松八弥 「岩松八弥」の名称

岩松八弥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 07:43 UTC 版)

「岩松八弥」の名称

「岩松八弥」という名がすべての史料に出てくるわけではない。

  • 昭和9年(1934年)の『岡崎市史別巻 徳川家康と其の周囲』上巻(191頁)では、広忠殺害とその実行者を「岩松八弥」として記す。『新編 岡崎市史2』(1989年)も『岡崎市史別巻上』の結論を認めた上で、「三河物語」と「松平記」が広忠の殺害を記さないのは、父・清康に続き2代にわたって横死した事実を忌み嫌った「作為」のためであろうとしている(709より711頁)。
  • 「三河物語」には「八弥」「弥八」のいずれも現われない。また広忠が傷害を負ったことも記されていない。
  • 「岡崎領主古記」「三州八代記古伝集」共に「八弥」の姓名については記すところがない。
  • 植村右衛門佐による「貞享書上」に「岩松八弥」という名がみえる。
  • 大正15年(1926年)発行の『岡崎市史 第1巻』334頁も「八弥に刺されて没した」と断定している。しかしこの段階では「岩松」とはしていない。
  • 「武徳大成記」では「岩松八弥」の名を記す。

「佐久間切り」

「三河物語」に次のような逸話がある。広忠に呼び出された「天野孫七郎」は「広瀬の佐間ヲ切テ参レ」と命じられた。これを受けて「佐間」に仕えた彼は、その寝所に忍び込んで首を切ったという。また「譜牒余録」の「天野孫七郎事跡」は、広忠の死を天文18年3月とした上で、同年10月に「参州広瀬の城主 佐久間九郎左衛門」の首を斬り、その功績により阿部定吉石川忠成の連署で50貫文の知行を与えられたこと、また今川義元からも感状を受けたとして、これを文書の形にして記している(刊行本上巻94および95頁)。

「岡崎領主古記」は広忠暗殺の「計略顕レ知レ」と記し、天野による佐久間殺害をその報復であったとする。しかし「三州八代記古伝集」や広忠病死説をとる「武徳大成記」は彼の行動を広忠の命によるものと記している(刊行本1巻87および88頁)。後者はその理由を「佐久間」が広瀬城に立てこもり近隣を掠めたことにもとめるが、広忠殺害説を支持する「新編 岡崎市史2」は「三河物語」が広忠横死を隠蔽したために、天野の武勇伝の位置づけを変えたのだと推測している(711頁)。一方で、広忠病死説を支持する村岡幹生は佐久間と広忠の間に遺恨があり、それがきっかけで佐久間の命を受けた八弥が広忠を衝撃したとしても、それを広忠の死因とする裏付けは何もない以上、当然佐久間殺害も暗殺の報復とは言えないとする(村岡は佐久間が斬られたのは安祥城攻防戦の最中であったとしている)。また、広忠暗殺が事実であったとした場合、それによってメリットを受けるであろう暗殺を仕掛けた勢力によって何らかの行動が発生すると考えられるのに[10]、そうした動きは特別に見られないとして、暗殺説は後世の付会に引きずられた意見でしかないとしている[11]

登場作品


  1. ^ 新編安城市史5資料編「古代・中世」には、総侍尼寺の寺侍本間重豊著で、17世紀のうちに成立したとあり、具体的な年次の記載はない。愛知県図書館所蔵には、出版年・寛政11年(1799年)、出版者・中村左京、出版地不明とある。岡崎市図書館にも、写本複製とあるが、年次の記載はない。国立国会図書館・国立公文書館DBには登録されていない。
  2. ^ 愛知県図書館所蔵本などでは「佐久間」とのみ記すが「朝野旧聞裒藁」所載のものは「佐久間九郎左衛門」と記している。宮内庁書陵部所蔵「静幽堂叢書36」(請求番号:103-10)所載「岡崎領主古記」がこれにあたる。
  3. ^ 国立公文書館DBには、選者あるいは著者・水野監物、校訂者・竹渓伯竜 旧蔵・昌平坂学問所とある。岡崎市図書館にも、写本複製が所蔵されている。
  4. ^ 「其の実は」として広忠の殺害を記すが、もともとこの項目は「又曰く」として述べられていることから。
  5. ^ 「佐久間九郎左衛門」は明治25年の「三河国西加茂郡誌」141頁および同書の出典としてその名がみえる「東照軍鑑」(成立年不明)では「全孝」とされている(巻1)。「三河国二葉松」「三河志」には「九郎左衛門」とする以外に見るところがない。
  6. ^ 寛政譜』では「家存 初め家政」(新訂5巻174頁)とされる人物。その孫の植村家政とは異なる(同頁)。ただし『寛永諸家系図伝』『寛政譜』共に、広忠を襲った「浅井某あるいは蜂屋」(後述)を討ち取ったのは「家政」の父「某・新六郎」のこととして記し、「或は曰く家政」とする説を否定している。松平清康の殺害犯阿部正豊を討ち取った「某・新六郎」と同一人物とみられることを理由とする。なお『寛政譜』ではこの「某・新六郎」の項に「今の呈譜、氏明に作る」とし(同前173頁)「栄安」を法名としている。
  7. ^ 信孝は天文17年に広忠と戦い討たれているので、18年に事件が起きたとすると矛盾する
  8. ^ 序によれば徳川家康譜代の家臣の平岩親吉著作。国立公文書館・国立国会図書館DB登録。幕府の儒学者の成島司直が、幕末天保に、これを原書として校正する形で、「改正三河後風土記」を作成した。成立年代については、改正三河後風土記・凡例によると、原書・三河後風土記は寛永正保の頃の撰述という。江戸初期に既に成立していたという。
  9. ^ 『三河後風土記』では、松平清康の件は「植村新六郎栄安」、松平広忠の件は「植村新六郎家次」とあり、同一人物・別人については触れていない。『改正三河後風土記』には文中で注釈がある。『改正三河後風土記』では「植村新六郎家次」ではなく、「植村新六郎」(系図には某、諱を持益:もちまさ、出羽守家政が父、大三河志は永政とする)とあり、松平清康森山崩れで、阿部正豊を討った人物と同一人物であり、清康、広忠、2代の主君の敵を討った勇士とし、井田合戦で討死は誤り、と記す。
  10. ^ 公式に記録されている広忠の男子は当時、織田氏の下にいた竹千代(徳川家康)のみであるため、広忠が死亡すれば岡崎は城主不在の城となる。
  11. ^ 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(初出:『中京大学文学論叢』1号、2015年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P377-379.


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