岩松八弥 脚注・注釈

岩松八弥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 07:43 UTC 版)

脚注・注釈

出典

  • 愛知県図書館所蔵「岡崎領主古記」請求番号:BWマ/A210/オ2
  • 刈谷市中央図書館所蔵「岡崎領主古記」請求番号:W3258
  • 国立公文書館所蔵「三州八代記古伝集」請求番号:148-0085
  • 内閣文庫所蔵史籍叢刊92『武徳大成記』1巻 汲古書院、1989年
  • 内閣文庫影印叢刊 『譜牒余録』中巻 国立公文書館内閣文庫、1974年
  • 内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第1『朝野旧聞裒藁』1巻 汲古書院、1982年

  • 『寛永諸家系図伝』3巻「植村」続群書類従完成会、1985年 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』5巻「植村」続群書類従完成会、1984年

  • 『三河文献集成 中世編』所収「松平記」国書刊行会、1980年
  • 国立公文書館所蔵「三州龍海院年譜抜書」請求番号:192-0216 ※データベース登録名は「三州竜海院年譜之抜書」
  • 日本思想大系26 三河物語』 岩波書店、1974年
  • 『武徳編年集成』上巻 名著出版、1976年
  • 『改正三河後風土記』 上巻 秋田書店、1976年
  • 『国史大系第38巻 徳川実紀第1篇』 吉川弘文館、1981年

  • 『岡崎市史 第1巻』名著出版、1972年 ※岡崎市役所、大正15・1926年刊行本の復刻
  • 『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』上巻 名著出版、1972年 ※岡崎市役所、昭和9・1934年刊行本の復刻
  • 『新編 岡崎市史2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年

  • 『参河志』上巻 歴史図書社、1968年
  • 『同』下巻所収「三河国二葉松」歴史図書社、1969年
  • 名古屋市蓬左文庫所蔵「東照軍鑑」請求番号:127-5 32巻16冊のうち第1冊、巻之1
  • 『三河国西加茂郡誌』ブックショップマイタウン、1990年 ※文会堂、明治25・1892年刊行本の復刻

  1. ^ 新編安城市史5資料編「古代・中世」には、総侍尼寺の寺侍本間重豊著で、17世紀のうちに成立したとあり、具体的な年次の記載はない。愛知県図書館所蔵には、出版年・寛政11年(1799年)、出版者・中村左京、出版地不明とある。岡崎市図書館にも、写本複製とあるが、年次の記載はない。国立国会図書館・国立公文書館DBには登録されていない。
  2. ^ 愛知県図書館所蔵本などでは「佐久間」とのみ記すが「朝野旧聞裒藁」所載のものは「佐久間九郎左衛門」と記している。宮内庁書陵部所蔵「静幽堂叢書36」(請求番号:103-10)所載「岡崎領主古記」がこれにあたる。
  3. ^ 国立公文書館DBには、選者あるいは著者・水野監物、校訂者・竹渓伯竜 旧蔵・昌平坂学問所とある。岡崎市図書館にも、写本複製が所蔵されている。
  4. ^ 「其の実は」として広忠の殺害を記すが、もともとこの項目は「又曰く」として述べられていることから。
  5. ^ 「佐久間九郎左衛門」は明治25年の「三河国西加茂郡誌」141頁および同書の出典としてその名がみえる「東照軍鑑」(成立年不明)では「全孝」とされている(巻1)。「三河国二葉松」「三河志」には「九郎左衛門」とする以外に見るところがない。
  6. ^ 寛政譜』では「家存 初め家政」(新訂5巻174頁)とされる人物。その孫の植村家政とは異なる(同頁)。ただし『寛永諸家系図伝』『寛政譜』共に、広忠を襲った「浅井某あるいは蜂屋」(後述)を討ち取ったのは「家政」の父「某・新六郎」のこととして記し、「或は曰く家政」とする説を否定している。松平清康の殺害犯阿部正豊を討ち取った「某・新六郎」と同一人物とみられることを理由とする。なお『寛政譜』ではこの「某・新六郎」の項に「今の呈譜、氏明に作る」とし(同前173頁)「栄安」を法名としている。
  7. ^ 信孝は天文17年に広忠と戦い討たれているので、18年に事件が起きたとすると矛盾する
  8. ^ 序によれば徳川家康譜代の家臣の平岩親吉著作。国立公文書館・国立国会図書館DB登録。幕府の儒学者の成島司直が、幕末天保に、これを原書として校正する形で、「改正三河後風土記」を作成した。成立年代については、改正三河後風土記・凡例によると、原書・三河後風土記は寛永正保の頃の撰述という。江戸初期に既に成立していたという。
  9. ^ 『三河後風土記』では、松平清康の件は「植村新六郎栄安」、松平広忠の件は「植村新六郎家次」とあり、同一人物・別人については触れていない。『改正三河後風土記』には文中で注釈がある。『改正三河後風土記』では「植村新六郎家次」ではなく、「植村新六郎」(系図には某、諱を持益:もちまさ、出羽守家政が父、大三河志は永政とする)とあり、松平清康森山崩れで、阿部正豊を討った人物と同一人物であり、清康、広忠、2代の主君の敵を討った勇士とし、井田合戦で討死は誤り、と記す。
  10. ^ 公式に記録されている広忠の男子は当時、織田氏の下にいた竹千代(徳川家康)のみであるため、広忠が死亡すれば岡崎は城主不在の城となる。
  11. ^ 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(初出:『中京大学文学論叢』1号、2015年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P377-379.






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